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メモ 針の扱い方について

言葉やチャートは氷のナイフだ、とかいって
思考・考えるということを、切り分ける作業(分節)というふうに捉えたりしてたのだけれど、

ふと、冷静に考えると、思考というものがそんなネガティブであるはずもない。

ただ、思考や言葉の誤用乱用に多くふれたり、失敗の経験をして
ちょっと自粛、反省する必要があるな、と思って、ブレーキになる表現をしたんだろう。

ーーー

切り分ける思考っていうのは、思考のひとつではあるけれど
ただの第一段階にすぎないのであって、
人間の豊かな活動としての思考はそんな中途半端なところで止まらない。
(とめてしまう人は未熟なだけだ。外科医が腹を割いただけで手術室を出るようなもんだ)

語るということは、境界をつなぐことだと先日書いたけれど、
その手順としては、
まず、境界が何かを(何と何の違いなのか)を見極める必要があって、
それから、その「間」をつなぐ、という手順を経て完了する。
(つなぐというのは、その違いの背景を共有することであったり、
 役割分担やシナジーや共通性や変化の道筋といった「関係性」を構築するということ)

思考は、切り分けて、再構成して、つなぐ、ということ。

(んー、とても当り前のことだった。
 当り前のことを新鮮に"思いついて”しまうのは、
 基本への謙虚さを忘れているからかもしれない。)

ーーー

まあ、そういうわけで、(氷のナイフ、っていう比喩も気に入ってたんだけど、)
針のイメージのほうが近いかもしれない。

尖った先で精密に切り分けることもできるし、
糸を通して紡ぎあげることもできる。
(待ち針として仮留めしておくにも使える。)

(ナイフと同様に丁寧に扱わないとケガもする/させる)

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いいたかったことは何か、というと
違いを浮き彫りにして、そこでやめてしまうんじゃなくて
ちゃんと責任を持ってつむごう、ということ。

「違いは、分けるためにあるのでなく、選ぶためにあるのでもなく
 つなぐためにある」

一つの会話の中で「違い」について語るなら、
ちゃんとその関係性についての示唆を出そう、ということ。

(・・・基本すぎるな。)

それは、AさんとBさんの仕事の仕方についてもそうだし、
右脳と左脳の役割分担についてもそうだし、
X社とY社のコンピタンスについてもそうだし、
わが社と競合の違いについてもそうだし、
科学者と哲学者のアプローチについてもそうだし、
”エリート”と"庶民”についてもそうだし、
私とあなたの恋愛観についてもそうだし、
小泉さんと安倍さんの手腕についてそうだし、
”上流”と”下流”の意識についてもそうだし、
関西人と関東人のユーモアのあり方についてもそうだし、
東洋思想と西洋思想についてもそう、

違いを明らかにするのはいいけれど、そこでとまってしまうのはよくない。
切り分けて喜んでるようじゃいけない。

その違いにどう向き合っていくか、ということを考えたいと思うのだ。



ーーー追記ーーー

違いの例として、
上ででは、apple to apple で、同種のものを並べたんだけれど、
僕が最近、関心を持っているのは
「質的に違うもの」同士をつなぐ、っていうことにあったりする。
たとえば
精神と物質の関係性であったり、気分と身体性であったり、
論理と感情であったり、アートと事業であったり、
哲学者とビジネスマンと一般消費者のコミュニケーションを成り立たせるようなものだったり

僕がブランド論を面白がっている理由のひとつは
こういう「質的な変化」を扱えることにありそう。

ーーー追記ーーー

もうちょっとだけいうと、
分けて、組み替えて、つないで、の後に、
つながったその双方を引き受ける、ってことがあるんだな。
つなぐということによって、より大きなものを引き受けることができる。

ーーー数日後の追記ーーー

これって、デカルトから始まった還元主義が
本来「分解⇒統合」であるはずところ「ひたすら分解」となって
それは一定の成果を上げつて科学主義、近代合理主義として定着しつつも
その限界も認識されて、複雑系とか生命論にゆり戻したのによく似てるな。

いまさらながら複雑系でも勉強してみようかと。
by kuniakimat | 2006-10-20 12:34
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