信仰深い地域を旅行していると、
宗教、思想、哲学的な問いを投げかけられる。
学生のころ、キリスト生誕の地で
「お前は何を信じているのだ」
と訊かれて、そのときは、多分、科学だ、といったのだけれど、
本当に腹から科学を信じているか、というと、そうでもない。
それは一つの閉じた体系として成立しているけれど、
成立しているということと、それを世界の真理として信じるということには
大きな隔たりがあるのはいうまでもなくって。
それで、では信じているものは、実際なんなのだろう。
そういうことを改めて考えさせてくれるのは
やっぱり異質の信仰と接するときで、
そのことは、やっぱり相手にとっても意味があるものらしい。
ーーー
「ムスリムの我々には、自ら信じるところを説明する義務がある。
そうすることで我々はより強くなれる」 (ラム島のジュース屋)
ーーーー
まず、なぜ、宗教が”必要”なのか、という議論から。
それは何に応え、与えてくれるのか。
Creator
Religion
Ruler After
(order) (death)
ーーーー
Creator:何がこの精巧な世界を作り出したのか
Ruler:人間が良い行いをする理由は何なのか
After:死んだあとどうなるのか
「これらの根本的な問いに対して答えられずに、どうして生きられよう。
科学はまだ応えられないだろうし、その仮説を信じたとしてよく生きることができるだろうか。」
ーーーー
ーーーー
そうはいっても日本人にフィロソフィーや世界観がないわけではなくって、
ただ、異思想との衝突の経験(というか必要)がなかったから
それを意識化し言語化して説得する、ということにただ慣れていない。
日本人が無宗教だといったり、思想を説明できないのは、
それが不在だから、というわけでもない。
無意識化されているということは、むしろより深く根付いているということかもしれない。
ただ、本当に世界観が失われつつあることも感じる。ような気がする。