「だいたいニーチェはつねに自分の哲学を更新登録しつづけた哲学者だった。よくいえば、自分の哲学を螺旋的に上昇発展させていったのであり、あからさまにいえば昨日の思索の矛盾などものともせず、明日や明後日の方向のなかで強引に消化していった。石ころでも鉄釘でも呑みこんだ。そして、その嚥下のたびに強烈な問いを発した。たとえ呻吟する思索がいまだ矛盾や欠点をかかえたままであっても、そうした途中の思索を後方に蹴って、前方に飛び出すのが平気だった。とくに自分自身の「生」をたっぷり含む認識論をつかって次のステージに飛び移るのがうまかった。」 (松岡正剛 千夜千冊)
そこから抜け出すために、形にするのもよい。
自分に含まれる生のものを観察することは難しい、
脱ぎさって、抜け殻となったときに初めてそれを批判的に見ることができる。
訣別のために一度、形にするという方法は機能すると思う。
命の成長は、適切な頻度の脱皮によって支えられているというイメージを持つ。
ーーー蛇足ーーー
見ていて痛々しい脱皮もある。
かさぶたを剥がし続けるような、同じ皮を脱ぎ続けるような言語化の取組みを繰り返し、
弱々しくなった中身からなお、命を絞りだそうとする。
もし前に進みたいのなら、
形にするのは脱いで終わらせるためだ、と思っているのがいいかもしれない。
逆に硬い皮にくるまって、その外へ広がる可能性を閉ざす人もいる。
言ったことは忘れること、同じことを何度も言わないこと、
というのもいいかもしれない。