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読書抜粋メモ 「虚偽と邪悪の心理学 ~平気で嘘をつく人たち」


私が邪悪と呼んでいる人たちの最も特徴的な行動としてあげられるのが、他人をスケープゴートにする、つまり、他人に罪を転嫁することである。彼らは、完全性という自己像を守るために、他人を犠牲にするのである。

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自己嫌悪の欠如、自分自身に対する不快感の欠如が、私が邪悪と呼んでいるもの、すなわち他人をスケープゴートにする行動の根源にある中核的罪であると考えられる。

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完全性という自己像を守ることに執心する彼らは、道徳的清廉性という外見を維持しようと絶えず努める。

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彼らは、自身の邪悪性を自覚していると同時に、そうした自覚から逃れようと必死の努力をする。精神病質者のように心楽しく道徳意識を欠いているのではなく、彼ら特有の良心の陰にある自身の邪悪性の証拠となるものを消し去ることに絶えず専念しているのである。われわれが邪悪になるのは、自分自身にたいして隠し事をすることによってである。邪悪なひとたちの悪行は直接的に行われるものではなく、この隠し事をする過程の一部として間接的に行われるものである。邪悪性とは良心の罪の意識の欠如から生じるものではなく、罪の意識から逃れようとうする気持ちから生じるものである。

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彼らに耐えることのできない特殊な苦痛はただひとつ、自分自身の良心の苦痛、自分自身の罪の深さや不完全性を認識することの苦痛である。

邪悪な人たちは、光ーー自分の正体を明らかにする善の光、自分自身をさらけ出す精察の光、彼らの欺瞞を見抜く真実の光ーーを嫌うものである。

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そのうそは、あからさまなものではない。訴えられて裁判にかけられるような種類のうそではない。しかし、そのうそはいたるところに見られるのである。そもそも彼らが、私に会いに来たことが、一つのうそだったのである。

それが彼らの、うわべをとりつくろうやり方のひとつだったからである。彼らはロージャーを救おうとしているかのように見せかけていた。

邪悪な人間が選ぶ見せかけの態度に最も共通してみられるのが、愛を装うことである。

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自分は心理的に完全な人間の見本だと信じるというのが、邪悪な人間の特性である。

邪悪な人たちが自分に障害のあることを認識できないという事実自体が、彼らの病状の本質的要素となっている。

情動的病の根底にあるのが、通常は、情動的苦痛の回避である。憂鬱、疑い、混乱、失望といったものを完全に経験する人間が、安定、満足、自己充足した人間よりはるかに健全だということもありうる。

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邪悪な人間は、自責の念ーーつまり、自分の罪、不当性、欠陥に対する苦痛を伴った認識ーーに苦しむことを拒否し、投影や罪の転嫁によって自分の苦痛を他人に負わせる。自分自身が苦しむかわりに、他人を苦しめるのである。

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彼女自身にとっては、彼女は「人々の光」であり、彼女の行くところ、いたるところに喜びと幸せを発散させていることになっている。しかし私をはじめ他人が彼女との関係において経験していることは、彼女が行く先々にきまって残していく、いらいらさせられる混乱と困惑だけである。

私はこの難攻不落の無神経な壁に頭を打ちつけることに疲れ果てていた。彼女にとっては、私の感情など存在しないも同然なのである。

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精神病理学的観点からすれば彼女は病気ではあったが、しかし、彼女が「不安定」であったとは言い難い。それどころか、彼女は驚くほど安定していた。

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患者の精神病理が「圧倒的」だという言い方がよくされる。これは、文字通りの意味である。心理療法の親密な関係においてこうした患者に働きかけようとした場合、膨大なうそや、ゆがめられた動機、ねじくれたコミュニケーションの迷路に施療者のほうがひきずりこまれ、文字通り圧倒されてしまうのである。こうした患者を病の泥沼から救い出そうというわれわれの試みが失敗するというだけでなく、われわれ自身がその泥沼にひきずりこまれかねない。

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他人を判断するときはつねに充分な配慮をもって判断しなければならないし、また、そうした配慮は自己批判から出発するものだ。

われわれが他人を悪と決めつけるときには、われわれ自身が別の悪を犯しているかもしれない、ということを充分意識する必要がある。「裁くなかれ、なんじ裁かれざらんがために」というキリストの言葉は、無神論者や不可知論者ですら知っているものである。

まず、自己浄化が必要であると説いたのである。これが邪悪な人間に欠けているものである。彼らが避けるのは自己批判だからである。

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自己浄化こそ、つねにわれわれの最大の武器になるものである。

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善は生命と生気を促進するものである。

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ストレスとは善の試金石ともいうべきものである。真の意味で善良な人とは、ストレス下にあっても自分の高潔さ、成熟性、感受性、思いやりを捨て去ることのない人のことである。高潔さとは状況の悪化に反応して退行することなく、苦痛に直面して感覚を鈍らせることなく、苦痛に耐え、しかもそれによって影響を受けることのない能力である。

人間の偉大さを計る尺度のひとつがーーそしておそらくは最良の尺度と思われるのがーー苦しみに耐える能力である。

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本書は、いつの日かあらゆる子供たちが、悪の性格とその防止のための基本原理を学校で注意深く教えられるようになる、との期待のもとに書かれた本である。
by kuniakimat | 2011-07-13 00:13
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