絶対善、絶対悪などというものは存在しない。
まずそのことから理解しなければならない。 善悪は関係の中でしか規定され得ない。 二者間において、片方が奪い傷つけた場合、 その関係において悪かったということはできるかもしれない。 けれどその人物が常に悪であり、悪人だということはできない。 人格は人生を通じた活動の総体でしか評価しえない。 善についても同様である。 一方的に与えることが善だとした場合、 与えている関係だけに目を向ければその人は善に見えるかもしれない。 けれど、その関係の外に、与える以上に奪っている関係性は誰にも必ず存在する。 親に与えられた以上に返すことができた人間はどれだけいるだろうか。 善人の朝ご飯にまぶされた雑魚の命に、その”善人”は何を与えたのか。 熱と光を浴びせてくれる太陽に、その”善人”は何を返したのか。 現実へ誠実に目を向けるならば、すべての存在は善良であると同時に邪悪なのである。 善人を気取る者は、都合のよい関係にしか目を向けていないだけだ。 これが善の欺瞞のひとつめである。 もうひとつ、より厄介なのは、善が相対性でしかないということである。 閉じた系において、一方が善であれば(より多く与えていれば)、 他方は(より多く与えられている)悪ということになってしまう。 ある人が、どちらかといえば善良、というのは、 その母集団がどちらかといえば邪悪といっているのと同義である。 つまり、善を主張することは、他者の悪を糾弾することであり、 善を追求することは、他者を悪に追い詰めることである。 善とは他に悪を押しつけること、と理解した上で、 そんなものを善と呼べるであろうか。 善人というのは不誠実な虚構にすぎない。 ・都合のよい部分から全体敷衍、および ・相対性のなかでの悪の押しつけ、 という2つの方便に支えられた欺瞞である。 ーーー 自らの欲求で利他的な行為をするのは人間生来のすばらしい善性であろう。 けれども、善を目指したり、自認したり、主張すること自体が 他を”悪”に陥れるという、大きな悪を犯していることにも気付かねばならない。 人目への意識や自意識が見えてしまうとき ボランティアや寄付の利己性と偽善に気持ち悪さを覚える また相対性の原理を意図的につかって 他を悪に追い込むことで自らの善を確保しようとする卑しさも存在する。 将来に活かすための原因追求と、 自分が安心するための犯人・スケープゴート探しが混同されてはならない。 災害時のマスコミのなかにこの卑しさを感じざるをえなかった ーーー 善について、その相対性と欺瞞を書いたが あらゆる”ポジティブ”についても同様の構造の上に成り立っている。 たとえば、善良さと並んで人間が追い求めがちな性質である 有能さについて、これは無能さとの相対性のなかでしか成り立たない。 有能であるということは、”無能”な人とのみ比較しているにすぎないし、 有能さをアピールすることは、他者の無能さを告発しているにすぎない。 (いうまでもなく無能な人、というのは存在せず、相対の産物である) ”優秀”な人間にありがちな陥穽である。 完璧主義者は他者を欠陥にすることでその完璧さを強化してしまい 孤独を深めていく。 ーーー ポジティブは欺瞞である。 善良も有能も虚構である。 現実と他者に向き合うことからの逃避によって ポジティブがねつ造され、 そして他者にネガティブを押しつけている。 「これこそが許されざるネガティブじゃないか」 なんていうことによって、自らのポジティブを確保してもいけない。 自らがこのネガティブの当時者であり、 ”ポジティブ”な他者の”犠牲者”だとしても それを糾弾するなら自らもまた”ポジティブ”な加害者である。 人はみな、善良でありながら邪悪であり、 有能でありながら無能である。 それは表裏であり一如である。 人間はけしてきれいなもんじゃない。 純粋さという欺瞞は逃避であり持続性のないバブルにすぎない。 善良や有能を追い求めることが人を不幸にする。 ーーー もちろんすべての人が、このような相対性の呪縛にとらわれているわけではない。 けれど、華やかな世界、憧れの”成功者”には このような相対性の奴隷が少なくない。 ”有能で善良”な人は「相対的に」影響力が大きい。 その発信内容はポジティブでありながら攻撃的で 相対的な価値観がにじみ出いてる。 マスコミやインターネット上でも ”有能”な人たちの相対競争、アピール、罵り合いを目にし、 相対的に“無能”な僕たちはその価値観に知らず知らず染められていく。 ーーー ーー ー 相対性から脱却するための鍵は二つであろう。 「中庸」と「自立」である。 人は皆、善良でありながら、邪悪であり 有能でありながら無能である。 自分もそのような一人の人間にすぎないことを認め、受け容れる。 善や有能を追求せず中庸を心がける。 そして自らに邪悪で無能な側面があろうとも否定しない。 ”善良”で”有能”に見える者にも惑わされない。 それだけの強さを持った、個人として生きる絶対軸を確立することではないだろうか。 ーー追記ーー そしてその絶対軸は、たぶん(僕にとっては) 誠実に生きる、ということなんだろうと思う。 現実に目を開き、自分を偽らず、自分に偽らずに生きる。 (あえて書いてしまうならば 本当の善性が目覚めるのは、そのずっと先だろう) ーー追記ーー 言うまでもなく、 悪行を奨励したり善行を否定する意図はない。 善や有能をアイデンティティとすることの危うさを書きたかった。 現実の自分の指針としては 心が自然と向かう善行には従い、 また認識しうる悪には自制を働かせる。 完全なる善でも完全なる悪でもないが フェアネスを守り抜くことに強い規律を持つ。 僕はフェアネスへの姿勢が 人間の大切な特質だと思っている。 (けれど、善の欺瞞と同じく、 フェアネスは関係の切り取り方の恣意性を拭いえない。 その自覚のもとにあくまで個人的な規律として大切にしたい)
by kuniakimat
| 2011-03-21 15:56
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