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今年もほんとうにありがとうございました。

2005年も間も無く終っていきます。

この一年は、よくも悪くも大切なものに向き合おうとした年だったように思っています。

さて、来年もまた、楽しくいこう。
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by kuniakimat | 2005-12-31 23:44 | Comments(0)

1月2日 宅飲み 

ミニ生旅会のお知らせ

東京でのんびり、な正月を過ごされてる方、おられましたら、
うちで軽く飲みませんか?アフリカ写真でも肴にしながら。
いないかなー。

18時から麻布十番の松村宅です。

今年もお世話になりました。
みなさまよい年を。

ーーー

なんだかんだで10人強。かなり楽しい会でした。
ひさしぶりに朝までディープに語りました。(途中で酔いつぶれて寝てたけど)
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by kuniakimat | 2005-12-31 12:51 | Comments(1)

Kenya (photo)

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by kuniakimat | 2005-12-27 10:23 | 旅写真 | Comments(0)

700 思考停止について 停止しながら考えるメモ

ーーー再追記ーーー

答えを示しているわけではないのだけれど、
考える方法についての深い洞察だなあと思う。

たぶん、こんなに”深く”考えることはそうそうない。
ひとつの底(最深地点)だったのだなと思う。

その深さは浮上したときなってよくわかる。

ーーー追記ーーー

これ、考えるために書いたので、
無駄な混ざりもので冗長になっているけど、
けっこう根本に近いことも言ってる気がする。

2割ぐらいに圧縮したらちょといいこと書けるかもしれない。
でも書かない。

ーーー再追記ーーー

自分でもとても読みにくいけども、
読み返してみたら、言わんとしてることは、あたらずとも遠からず、な気がした。

ーーー本文ーーー


思考活動というものについての一つの仮説


動き、というものは相対的にしか認められない。
つまり基準点がなければ、動きを観測することは不可能、という性質がある。
なので、思考が活動であるためには、不動の基準点を前提とする必要がある。

(基準点を持たない動き、というものは、構成する部分の動きとしては成立する。
 互いの位置関係が変化するというもので、これは振動であり温度というものだと思う。
 ぐるぐる回る思い悩みや、感情の起伏なんていうのは振動なのだと思う。
 たとえると、家のない旅なんてものはなくって、そんなのは無秩序な漂流なのだ)

さて、活動は、動きを肯定するものであるにも関わらず、
そこに不動の点を設定せざるを得ないというジレンマを抱えているように見える。
活動している人は実は止まっている、というこのジレンマから逃れるために、
多くの人は、無意識的に、不動の点を無意識化して忘却してしまう。

人間における不動の点とは、自分という主体であり、すなわち世界観のことなんだろうと思っている。

 (「我思う故に・・」というのに近いのかな。ただ、その思う主体というのは、世界観なのではないか、と。
 「我」とは「絶対的な自我」みたいなのが存在するというより、世界観が主体なのかもしれないという感覚。
  その意味においてバラモン教の梵我一如とちょっと見かけが似てる気もしたけれど、
  それは絶対唯一解ではなく、我と同じ数だけ梵もある、ということ)

つまり世界観を持たずして活動をするのは原理的に不可能だ、と僕は言おうとしている。

そしてそれが不動の視点であるためには、信じられなければいけない。
信じる、ということは、疑ってはいけない、思考してはいけないということである。
要は思考停止しなければ、思考することはできない、のではないかということ。

今僕が書いてみたことの論理性はまだろくに検証していないけれど、
「停止しなければ活動することはできない」というのは
なんとなくの直観的にも経験的にも合っているように思う。(ただ振動はできるけれど)
(「バカになれ」というのはこのことを言っているのかもしれない)

ーーー

さて、もし活動したいと思うのであれば、停止しなければいけない、と。
一方で、浅はかな視点で停止してしまうのも怖いと思う。
どうするかというと、一定まで掘り進んだら一時停止して、その視点で活動してみる。
しばらくしたらまた視点自体を疑ってみる。
多分これを何度か繰り返していくのだろう。

人によってはたとえば少年期からの視点を一度も疑うことなく活動し続けるだろうし、
あるいは、大人になっても一時停止すらできず更新し続けようとする人もいるだろう。

視点自体を疑う活動というのは、甚だ危うい振動である。
固まりかけている構造を崩す行為であるし、
そもそも、その疑う主体は誰であるのか分からない。(主体である視点を見ることは原理的に不可能でないか)
浮遊した主体を次の場所へ落ち着かせるのは誰なのか。
こういう思考を活動ではなく、思索だとか迷走と呼ぶ。

ーーー

永久停止にしろ一時停止にしろ、浮動の視点を固める、
というのは、難しいことだろうか。考えてみる。

それは、ただ、信じるということであり、もう考えない、ということなので、
何か信じるべきものを示され、納得できたなら、もうそれでdone. とても簡単なこと。

けれども、信じるべきものを示されなかったときは多分けっこう難しい。
自分で視点/世界観を構築するのはとてもエネルギーと時間が要る。

でも、それは、「観」である以上、正しさや間違いなんてものは存在しないから
そんなものを気にして自分を疑い続ける必要はない。
ただ、あるとしたら、「自然さ」や「美しさ」なのだと思っていて、それは大切にしたいなと思う。

だから、さんざん迷走した思索の末になんらかの「観」にたどり着いて
それが自然に気持ちよく感じられるのだったら、
もう、思索は停止してしまっていい、ということかもしれない。



ーーー追記(メモ)ーーー

ためしに最近の僕のことについて少し単純化しながら考えてみる。
強い組織にいる間は、その方法を習得することに集中して自分の視点の思索を停止させていた。(または、組織のそれに融合しようとしていた)
その視点や世界観はとてもよく出来ていて魅力的だったけれど、そこで一生停止していいとまでは、まだ思えなかった。
(十分理解する前に辞めてしまったからかもしれない)
だから、その方法の魅力に後ろ髪を引かれながらも、もう一度自分で思索する余白を残しておくことにした、と。

そういうわけで転職し、またモラトリアムの思索にふけった一年だったように思う。
そうこうした結果、幸い、僕が自分自身で、気持ちいいなあ、と思える視点を掴むことができたような気がする。

だから、しばらくは、もうこの視点について疑うことはせず、
これにしたがって生を営んでいけばいいんじゃないかと思っている。

そいうわけで、思索の旅は終わり、ということだろう。


ーーー追記ーーー


不動の視点が、機能しなくなるとき、
あらたな視点を獲得しなければ、迷走、漂流することになる。
そのときに不動の視点が意識化されていれば、まだ対応しやすいのだけれど、
無意識下にあるときには、視点というものの存在を知ることからはじめなければいけない。

多分、僕のとても感覚的な読みだけれど、
日本は、アメリカのとても意識的な視点によって、従来の視点では機能しなくなるような仕組みを埋めこまれてしまった部分がある。
それを許してしまったのは、日本人が無意識的に大切にしていた視点を自覚しなかったことにも一因があるんじゃないかと思う。

方法や仕組み、というのは、道具に過ぎないようでいて、でもその道具が機能するための大きな前提を必要とする。
そしてそれは、思考法であったりマネジメントスタイルといった高度で抽象的なものになるほど、思想を前提としている。
「はじめに言葉ありき」といった宗教を信じている人間のための道具が、誰にでも役に立つわけではないのだ。
それは、突き詰めて使いこなそうとすればするほど、自分の世界観との違和感に向き合わされることになる。

(その違和感を無視していれば、方法によって思想までのっとられてしまうのだ)

ーー

西洋にどこまで学ぶべきか、については、大きな判断だと思う。

個人的には僕は、どうしようもなく日本で育ったのだし、
無意識下で育ててきた世界観はとても日本的なものなんだと最近よく感じるようになった。
(表面的に西洋的な方法で語っているにしても。
 また、アメリカの会社で働いた影響は小さくないけれど)
そして、僕はこの世界観が美しいと思っているし、とても自然だと思えていて、
それは、なかなかに幸せなことなんじゃないかと思っている。

ーー

なんにしても、方法や道具の魅力に振り回されてしまわないことは大事だと思う。
その道具を使って、何を実現しようとしているのか、
その方法の背景にある思想が何であるか、
を理解しておくのはとても大切だなあ、と思うこのごろ。
まずは、自分がどのような世界観を持っているのか、意識化してみるのもいいかもしれない。


ーーー再追記ーーー

あと、不動の視点たる条件、のようなものについてのメモ。
3つくらいあるのかな、と思っていて、まず深いこと。深くなければ、近所の話は分かるのだけれど、異質や異分野への対応ができなくなってしまうから。
2つ目は自然であること。やっぱり美しく自然でない視点には何か不整合というか調和を欠くのだと思うから。
3つ目はユニークであること。これはおまけなんんだけれど、視点がユニークであると人と違うことが言えて、面白がられて存在価値を認められるから。

で、2つ目と3つ目なんだけれど、これを両立するのがなかなかに難しそうに見える。
自然でかつユニーク。これはなかなか魅力的である。
普通の自然や、不自然に奇特(偏り)は、よくいるけれど、自然でユニークというのはかなり希少だから、
それに出会えたりすると人はとても嬉しくなってしまう。
動物に例えるんだったら、キリンとかチーターとか。とてもユニークだけれど、自然。

1つ目の深いこと、はある程度mustな話で、というか浅い杭なんて揺さぶられたら抜けてしまってとても危うい。
(たとえば、お金、とか、合理性、とか、恋とか、情、とかを最上位の「観」にしてしまうとね)
逆に、とても深いところ(抽象度でいうと高いところ)に観(不動視点)をもてたら強い。
強いというか、何に対しても「観る」ことができるようになる。

売れっ子の作家なんかが、広いジャンルに渡った書籍を異常とも思える速度で執筆していて驚かされるけれど、
(最近だと、斎藤孝とか、内田樹とか、あと中谷彰宏とかね)
その広さっていうのは、その視点がとても深いことによって可能になっていて、
 だから実は、メインメッセージは常に同じことを言っていて、ただ手を替え品を替え、でも視点は変えていない。
その速度っていのは、その視点が不動であることから来ているのだと推察する。
 だから実は、たくさん思考しているようでいて、各著作に新たな発見(動)は含まれていない。
その面白さっていうのは、その視点がたまたまユニークだったからなのだろう。
 だから実は、本人は自然にユニークなのであって、奇をてらっているのわけではない。(でないと、長続きはしない。)

僕の読みでは、多作の時期の前には、深い沈黙の時期があるのではないかと思う。(調べれば分かる話だけれど)
多作の前提には、視点の深さとユニークさがあるとした場合、
その独自の不動視点を獲得するのには、長い思索(自らの視点を問い続けること)が必要だと思うから。

先に書いたように、この思索というものをしているときは、活動はできないのだ。
不動の点が定まらないから、振動にしかなり得ないし
視点を問う思考というのは、どうしようもなく抽象的なので、人口に膾炙する具体的な情報には関心が向きにくいのではないかと。

ーーー

 逆に言うと、多作の時期がきたら、もうその人は”あがって”しまっているんじゃないか、ということ。
 あがった人はもうその視点を深めることはないから(少なくともその時期には)、
 その状態の人から学ぶことはあっても、その人と話すことはないのかもしれない、と思う。
 厳しい言い方をすると、有難い存在だけれど、もう魅力的な存在ではないのかもしれない。
 視点が不動になって吸収の姿勢がなく、どう化けるか分からないという不確実性がない、ような人間に面白みを感じられるかどうか。
 
 多分ブログにもそいう部分はあって、いっぱい書いてしまうときは、気持ちよく調子にのりながらも
 ちょとやばいなぁ、という気持ちがある。まだ、視点を固めるには早いでしょう、と。

ーーー蛇足ーーー

ところで、僕が今こんな長い文章で言おうとしていることの一つは
それは僕がなぜこんな長く意味のない文章を書いているのか、なのだろう。

(これは馬鹿げていて面白い。始めから書かなければ解決される問題なんだから。汚れた靴をはいて雑巾がけしているみたいなもんだ)

要は、僕はまだ、思索の振動をしているから、良い書き物はできないのだけれど、
自分の視点を問い深めるプロセスの中で、書くという方法を用いている、ということ。

もうちょっと言うと、書いて考える、の中でも、特に連想という流れを重視した方法で書いているから、
はじめから簡潔にはまとまりえない性質のものではない。という言い訳をしている。
それはそれで、ときどき必要なことだと。

僕は、最近イメージでの考え事を重視している、とよく言っている。
けれど、本当はイメージを含む3元の思考によって本質へ追い込んでいくことを大切にしようと思っている。
3元というのは、イメージ(像)、フレーム(構)、ストーリー(流)であり、悟性、理性、感性に対応する。
本当に本質的なものというのは、このどれで捉えても本質であるはずだ、と考えているのだ。
そいうわけで、最近ちょっとイメージにより過ぎた思考だったので、連想的に書くことで一度流してみた、ということ。

ーーー

いろいろ書いてみて思ったこと。

僕はまだ、振動の思索の中にいるけれど、
どうやら、お気に入りの不動の視点の手ごたえを感じているのだ。

それが、深く、自然で、さらにユニークだったらいいな、という期待をもってうきうきしている、
そういう時期なのだろう。

新しいステージに来たことを確実に実感したくて書いた文章なのかもしれないし、
ただ、たくさん書いてるうちにライターズハイになってるだけかもしれない。

(すぐ悟ったつもりになってしまうことは、大体は躁状態によるものなので、
 まあ一人で楽しむには良いけれど、人に接するときはちょっと注意したほうがいよい)

ーー

 たまには言葉に書いてみるのもいいな、と思った。
 途中から、言葉遊びに的になってる部分があるけれど。
 自分の気持ちというのをこうやって眺めて理解してみること。

ーー
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by kuniakimat | 2005-12-26 15:57 | 思索放浪・凹み | Comments(1)

芸について 三元相対化の実験

    思念


    活動


情動     役割


ーーー
ーーー


    


    役割

戦       営


ーーー
ーーー


    創


    芸

       贈


ーーー
ーーー

    実


    形

枠       


ーーー
ーーー

    人


    間

空       時

     
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by kuniakimat | 2005-12-26 15:38 | 表現・伝達観 | Comments(1)

宗教の存在理由について メモ

信仰深い地域を旅行していると、
宗教、思想、哲学的な問いを投げかけられる。

学生のころ、キリスト生誕の地で
「お前は何を信じているのだ」
と訊かれて、そのときは、多分、科学だ、といったのだけれど、
本当に腹から科学を信じているか、というと、そうでもない。
それは一つの閉じた体系として成立しているけれど、
成立しているということと、それを世界の真理として信じるということには
大きな隔たりがあるのはいうまでもなくって。
それで、では信じているものは、実際なんなのだろう。

そういうことを改めて考えさせてくれるのは
やっぱり異質の信仰と接するときで、
そのことは、やっぱり相手にとっても意味があるものらしい。

ーーー

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「ムスリムの我々には、自ら信じるところを説明する義務がある。
 そうすることで我々はより強くなれる」 (ラム島のジュース屋)

 
ーーーー

まず、なぜ、宗教が”必要”なのか、という議論から。
それは何に応え、与えてくれるのか。



    Creator


    Religion


Ruler       After
(order)      (death)


ーーーー

Creator:何がこの精巧な世界を作り出したのか
Ruler:人間が良い行いをする理由は何なのか
After:死んだあとどうなるのか

「これらの根本的な問いに対して答えられずに、どうして生きられよう。
 科学はまだ応えられないだろうし、その仮説を信じたとしてよく生きることができるだろうか。」

ーーーー
ーーーー

そうはいっても日本人にフィロソフィーや世界観がないわけではなくって、
ただ、異思想との衝突の経験(というか必要)がなかったから
それを意識化し言語化して説得する、ということにただ慣れていない。
日本人が無宗教だといったり、思想を説明できないのは、
それが不在だから、というわけでもない。
無意識化されているということは、むしろより深く根付いているということかもしれない。

ただ、本当に世界観が失われつつあることも感じる。ような気がする。
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by kuniakimat | 2005-12-26 15:33 | Comments(0)

Touch with the camera  写真の三元


     存在


     写

形式      関係


ーーー

存在(質感、物語、出来事)
・美しさ/純粋さ
・強さ
・希少さ
形式
・コントラスト(色、陰影、遠近、明暗、主客、悲喜、新旧、etc)
・フレーム(空白、バランス、etc)
・グループ(組み合わせ)
関係
・作用/会話、距離
・変化(刹那)
・鑑賞者への作用(メッセージ)

ーーーー

流れている生をシャッターで切るのではなく
流れに触れ、流れを生み出す写真のこと

Take から Touch へ
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by kuniakimat | 2005-12-26 15:21 | 表現・伝達観 | Comments(0)

Kenya (photo)

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by kuniakimat | 2005-12-26 08:56 | 旅写真 | Comments(0)

Kenya (photo)

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by kuniakimat | 2005-12-26 08:53 | 旅写真 | Comments(0)

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何が見えていないか
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by kuniakimat | 2005-12-09 23:48 | Comments(2)