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規範メモ 2010年版

日々の経験や思考の中で、自分が大切にしたいことについての認識は更新されていく。
更新する可塑性は保ちながらも、見失わないように、ときおり意識上にあげて見つめ直す。


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by kuniakimat | 2010-02-16 12:41 | ★★★ | Comments(0)

よく分からないことメモ ”自分に克つのは誰か”

分かったことは書かなくても分かっているので
分かっていないけど気になることについて分からないまま書いたりする。

ーー

勝負ごとというのはよしあしあるけども、人を活性化する効用はとても大きい。
なかなか有用なエネルギー源になるのでうまく使いこなしたいところ。

戦闘や競争、賭けごとというとそのネガティブな側面が大きいのも確かで
まあいろいろ考えていくと、他者と争ったり比べたりするのでなく
己との勝負、自分に打ち勝つ、克己、というところが一つの純粋な勝負どころなんだろうと、実感としてもそう思う。

ーーー

それで、自分に勝つってどういうことか考えると、しかし自分に勝つ主体も自分な訳だったり、
主体が勝ったなら対象であるほうの自分は負けることになるし、いったいぜんたいどういう構造なのかと。
いや主体は一体誰なんだと。

まあ勝負事というからには、征するものと征されるものがいるわけで
それが両方”自分”だということだとすると、自分というものを分割して、一方が征して、もう一方が征されると、そうなるしかない。(と思われる)

それでは、どう自分を分割して、どちらを贔屓(ひいき)するかということを考える。

思いつくのは

・意志が誘惑に克つ
・大欲が小欲に克つ
・思考が感情に克つ

・未来が現在に克つ
・計画が衝動に克つ

・利他が利己に克つ
・外部目的が内部に克つ
・全体が個に克つ

・挑戦が臆病に克つ
・善意が悪意に克つ

といってもなんか作為的な感じはして、
どちらが正統な己であるのか、はなかなか理解しにくい。


ーーー

もう一度リストを眺めて考えていくと、なんだかんだ


・外部からの規範が、内部的な自己に克つ


ということのような気がしてきて、
そうすると、征する主体のほうは、実は自分ではなくて外部なのかもしれないと思い始める。

それって、自分が外部に順応することだったり、全体による個の圧殺であったり、自我の放棄であったりということなのかね。
たしかに超越的なパフォーマンスをあげる克己的な人の中には、何かの奴隷のように振る舞う人もいる。

もしこういうことだとしたら、
己に克つけれど、己は負けるってことだよな、、

自分を消失させるという意味では
滅私奉公だったり、無私、無我の境地、則天去私といったことに近いんだろうか。
(そういう東洋的なものだとしたら、個を重視する欧米では克己的な概念ってどういう扱いなんだろうか。)



ーー

よく分からない。よく分からないままのメモ。

(たぶん分からないながら書いたので気になってまた考え続けることになって何らかの前進があるはず)

ー追記ー

いやまったく逆の可能性として、
一番内側の己が、外側の表面的な己を征するというのもありえるか。
真の自己が、仮の自己に打ち克つと、それはあるかもしれない。
いや、でも克己ってそういうイメージの言葉じゃないよなと思う。


ーー追記2ーー

辞書によると、意志により感情や欲望を抑えること、とある。
けれど、その意志はどこから来るんだろう。
感情や欲望を思考により練り上げて志や目標に定めたものが意志になると思うんだけれど。
感情や欲望が抑えられたときの”意志”は何によって生まれるんだろうか。

ーー追記3ーー

いや、これは時間軸での問題かもしれない。
意志が感情に克つというとき、意志とは過去に決めたことであり、感情は今のものである。
要は過去が現在に優先するということであり、決めたことは変えない一貫性、頑固さが克己なんだろうか。
それだとしても、過去に決めたことというのは、現在の自分にとって外部的な規範ともとれる。
やはり外部による内部への抑圧のことのような気もする。

ーー追記4ーー

たぶん論理的に突き詰めるなら、私とは何か、という哲学的な解釈を踏まえる必要が出てくるんだろうな。

僕の今のところの仮説であり、実感でもあるところからいうと
「私」というのは、一つの解釈、一つの作為的な分節によって発生するものであり、ある範囲につけた便宜的な名称である。

自他の恣意的な境界によって生じる己という一つのアトムについてさらに操作を加えるのが克己というものなのかもしれない。
その操作というのは、自他境界の引きなおしなのか、中空化なのか、さらなる分節なのか、

まだもうちょっと考えてみよう。


ーー参考ーー

論語に由来があるらしい

『論語』顔淵篇


孔子が「己(の身勝手)に打ち克って礼にかえることが人徳につながる」と論語の中で説いたもの。
 謙虚にして積極的に生きるこの姿勢こそすべての向上の源泉である.。

 あるとき、孔子の弟子である顔淵が、「仁」とはどういうことかと質問した。孔子は「己に克ち礼を復むことを仁というのだ。つまり、克己復礼という意味は、自分の身勝手は行わないようにして、心では自分を引きしめ、外では、人として行わなければならない礼を行っていくというものであるのだよ。 もし、人が一日だけでも、「克己復礼」を実現できたら、それは、広く世の中に影響を与え、天下の人々がみんな人徳をよいものだと考え、仁に心を寄せるようになるだろう。
 身勝手に打ち勝ち礼を実践させることは、結局、自分の力によってできることであって、他人の力を待ってできるものではない。すべては、人にもとからそなわっている心の働きによるもので、仁を欲すれば仁は行えるものなのである。」と答えた。
 顔淵がまた、「これを行うための具体的なことを教えてください」と質問した。対して孔子は、「礼にはずれたことをじっと見ていたり、聴いたり、言ったり、したりしてはいけない。みんなの行動が礼と合致するようにしよう。礼とは、人の世に秩序を与え、社会が平和になる法則であり、礼に従うことが仁の徳につながるのである」と答えた。顔淵は感激して、「回(顔淵)はふつつか者であるけれども、なんとかして、この言葉を一生の仕事にしたいと存じます」と答えた。



外的規範の「礼」と、
自らにもともと備わっている「仁」を善いものとして、
身勝手を敵とする構造
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by kuniakimat | 2010-02-09 00:45 | ★★★ | Comments(0)

Createnergyで考えてみる

忙しい日が続いていたがやっと一段落。

半年間どっぷり浸かっているコンサルの仕事は
経営陣合宿をもってレバレッジポイント(頂き)を越えた感がある。

ーーー

成果に責任を担う仕事の中であらためて感じるのは
創造力マネジメントの重要性。
自分やチームメンバーが持つ創造の力をいかに高め、引き出すか。

創造性のない業務時間をいくら長く過ごしても
成果につながる核は導かれない。
課題に本気で真正面から向き合い、
全感覚、思考、知力を集中させて、突破口となるあらたな何か、を生み出す。
仕事の成否のカギはそこにある。

そんなことは新人の頃から百も承知のことなのだが、
最近、認識が変化したのは、
創造力が資源である、ということだ。

生み出すまで必死で頑張りぬく、というのは
若いころには鍛練の意味でも大切な姿勢なのだけれど
現実的に、人がある期間内に創造できる質量には限りがあると感じるようになった。
(まあ、歳をとって疲れやすくなったというだけの話なんだけれど)

何か、重たい価値を生み出したあとには、しばらく何もできないくらい空っぽになる。
日という単位でいえば、創造的な時間は多くて6時間、連続的には3時間がいいところだと感じる。
逆に長時間働いても、生み出していないときは消耗しない。

たぶん、創造という行為が、生命エネルギーによって賄われているからなんじゃないかと思う。
人間は食べ物などで供給される形でエネルギーを摂取し、創造力という形で放出する。
その創造力は、一人の人間がある期間内に持つ絶対量であり、有限な資源だといえる。

 (エネルギーというより、ネゲントロピー(/エントロピーを減じる力)というのがより近いかもしれない。)

そう考えると、その創造力の放出をいかに効果的に行うか、の
マネジメントが本当に重要だな、と思う。

(ここでいうマネジメントとは
戦略的資源配分および効率的運用のこと)


ーーー
 
 (思いがけず文章が長くなっているのは
  しばらく書かなかった故の思考・文章力の低下か。。)

ーーー

社会に目を転じると、金融危機から極めて不安な時代に差し掛かっているらしいのだけれど、
ミクロな存在としての自分の本音をいうと、あまり感じるところはない。

人間として大切なのは、(当たり前ながら)生きていることなんだけれど
それは生命エネルギーをもって創造を営んでいる、ということである。

それさえあれば、幸せでいられるというもんじゃないだろうか。


創造というのは、人を喜ばせる何か、を生み出すことだと思っている。

これが顧客に対して提供されれば対価を得られる。
すなわち経済活動として商い・仕事になる。

別に、経済活動にしなくてもよい。
友人や家族に対して、喜ばせる何か、を生み出してもよいし、
自分に対してでもいい。
なので、世の中や経済がどうなっていようとも関係なく
自分が創造的でありさえすれば、近くや自分を喜ばせることができる、
つまり、幸せでいられるのである。
幸福は自給自足できる。

ーーー

経済社会のなかで考えてみても、
グローバルに人口が増加し、国内失業率もあがるこのご時勢、
労働力は希少な資源とは捉えられない。
これからより求められるのは、人間の内側にある有用で有限な資源である、何かを生み出す力、創造力なんだと思う。
有用で有限な資源は、市場に出せば高く評価される。

 (やはり資源は、人・時間でなく、創造力で捉えるのがピンとくる)

ーーー
ーーー

創造力マネジメントの重要性について述べてきた。

あらためて個人に戻ると、
考えたいのは、何に対して(/誰に対して)
自分の創造力を働かせるか、ということだ。

最近の僕の場合、たぶんそこに変化が起こっていて
自分のためとか、顔の見えない多数のため、に創造力を使おうという気持ちが小さくなっているのかもしれない。
それより、目の前にいる顧客やチームメンバー、近くにいる人のために
有限な自分の創造力を残しておきたいという気持ちが強い。

ーーー

最近、思索的な考え事をすることが少なくなった。
また、ブログもかなり長い期間書いていない。

自分でもどうしてだろう、と思っていたんだけれど
ひとつの理由は、創造力を使いたい対象の移行、ということなんだろう。

ーーー


何のために、誰のために、
というのはいつでも大事な問いだと思う。
これからも考えていきたいと思う。

ーーー











 (それは、何のために??)



ーーー追記ーーー


ひさしぶりにブログを書いた。
読み返すと、なんて当たり前のことを書いているんだ、と思った。
けども、たぶん、人間っていうのは当たり前のことを忘れるんだな。

創造の大切さだとか、それが人を喜ばせるということであるとか、

忘れないようにしよう。


ーーー追記ーーー

僕はこの文章を書くにあたっても少ないながら
”創造力”を使っている。
その結果、自分なりの充足感も多少ある。
一方で、他の誰かに何かを生み出したわけではない。

閉じた自給自足ということなんだけれど、
いいかえたらマスターべションにすぎないんだな。

きちんと相手/顧客をもって、創造力を使っていきたい、
と改めて思う。


ーーー追記ーーー

ところでタイトルのcreatenergyっていうのは
書きながら思いついた単位なんだけど(意味はそのまま創造するエネルギー/力)、
迷いも多い日常のなかで、ひとつの判断軸としてけっこう有効かもしれない。

この行為/ものは、自分の/相手の/場の/社会のcreatenergyをどのように高めるだろうか?

「createnergyの最大化」という目的意識をもって生活する、
そういう実験を2,3日してみたらわりといい感じだった。
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by kuniakimat | 2008-11-07 00:53 | ★★★ | Comments(3)

仕事メモ 本気でやること

「全力でやること」は目的でも成功の鍵でもなくて

大事なのは「本気でやること」

ーーー

簡単には達成できないことを扱うとき
その挑戦に本気で向き合うなら
必然的に全力以上で取り組むことになる。

全力以上でがんばるときに
限界の枠が押し広げられたり飛び越えたりできる。
本気で挑戦することが成長につながる。

(全力を目的としてやった場合は全力以上には越えていかない)

ーーー

現在の能力範囲で解決できることに関しては
全力でやる必要はない。
ただ、本気で誠実に取り組む。

(きちんと向き合ったら結果的に
 全力でやることになることは多いんだけれど)

まず本気で向き合うこと
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by kuniakimat | 2008-08-24 15:32 | ★★★ | Comments(0)

覚悟が作る夢

何かに初めて取り組むときには
見通しをたてたり上手に進めることが難しい。
少しでも事前に手がかりがほしいということで
それを経験したことがある他者から話を聞いて
これからの自分のケースを類推する。

もっとも、やはり自らの経験に勝るものはない。
そこで自ら経験したことのある、似た何か、から類推することもまた有用になる。
初めての対象と、同型の本質を持つ経験がすでにあるかもしれない。

人生というのは誰にとっても初めてであり
その全体の主体的な経験というものは持ちえない。
どう生きるべきか、を切実に感じることは難しい。

ーーー

旅のことを思う。
始まりと終わりがあり、果てまで往って帰ってくるその形を
人生をはじめとする様々な営みの中に見る。

ーーー
ーーー

仕事でわくわくすることが少なくなっているときは
社内にいることが多くて、
居心地は悪くはないが、出会いがなければ果実もない。
家から出ない引きこもりと同形。

ーーー

最近、物理的に旅行にも出ていない。
去年の今頃モロッコに行ったのが最後になる。
(仕事で欧米には行ったけれど)

ーーー

旅に出ないのは、元気がないからだろうか、
家事が忙しいからだろうか、夢が持てないからだろうか、

さて

ーーー

夢を見、描くことの大切さについてあらためて考える。
それは生活、時間、意識、活動、意欲、感情、など
自分のすべてにテンションと密度をもたらす。

それは心地良く、また重さでもある。

夢がないのは、夢に付随するテンションの重さを引き受ける姿勢がない、
ということではないか。

問題は覚悟のなさ。
夢を持ち、生きる覚悟。



ーー追記ーー

(別の考え方)

いや、降ってきた重荷を引き受けることしかないんじゃないか?
それを然るべき時、所まで背負い届ける、それが”夢”なんじゃないか。
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by kuniakimat | 2008-05-24 18:23 | ★★★ | Comments(0)

メタメモ 性質と方法の再提示(というアプローチ) 443

(友達に薦められた本「出現する未来」とかを読んでて思いついたこと)

ーーー

パラダイムが変わろうとするとき(個人的な姿勢や考え方にしろ、社会の時代精神にしろ)
新たに示されるのは、視点であり、
視点というのは対象の性質と呼応する。

忘れられていた(/見過ごされていた/軽視されていた)
「性質」の重要性を強調することが、その時のメッセージになるということ。

最近よく目/耳にする例でいうなら
 関係性、一体性、主体性、共時性、両面性、全体性、持続性
といった性質について再喚起されている。

(逆にいえば、それ以外の性質、
 たとえば個別性、同一性、測定性、可視性、成長性
 が偏重されてきたことへの指摘である)

ーーー

性質の重要性認識が共有されたら
次にはそれを扱う方法、が合わせて提示されると有用になる。

たとえば
 関係性や主体性についての 対話/dialogueや
 主体性や全体性にかかわる 内観/introspection
 一体性や全体性を高める 統合/synthesis
 波動性や関係性を強める 共感/sympathy、story telling
 全体性や関係性を設計する system thinking
といったように (※例示なので対応はわりと適当)
新たに強調される「方法」は
新たに強調される「性質」に対応している。

ーーー

TIPSやハウツーもよいけれど、
それを使いこなすためにも、
対象の性質を理解しておくことは大切。


「その対象にはどんな性質があるのか?」

(人間の性質、事業の性質、経営の性質、社会の性質、世界の性質、etc)

単純ながら改めて問うとなかなか面白い問いだと思う。

ーー
ーーー
ーーーー


ところで、いま言ったこともひとつのメッセージであるとすると
ここではどんな性質と方法の提示がされたのだろうか。

性質はおそらく、「物事には性質が存在するという性質」および「性質の多様性と潜在性」、について
方法は、「性質を理解し、その性質を扱う方法を特定、習得する」、といったところ。

ーー
ーー追記ーー

「性質」というのは本性であり、natureであり、
それは自然なものだ。
自然を見つめ、理解することから始める、ということ。

ーー

「~の性質は何か?」という問いは
「~の本質は何か?」という問いにもよく似ている。

ーー追記ーー

ここで言っているのは
「既知の対象の未知の性質」であり
「未知の対象の性質」はまた別の話。
(UFOとかインターネットの特性とか)

僕は前者が好きだなと思う。
知っているようで知らない、ビュジャデ。
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by kuniakimat | 2008-05-02 21:07 | ★★★ | Comments(0)

あえて偏る 322

中庸は表現としては弱い。
その本質はすでに語りきられていて、新たなメッセージになりにくい。

インパクトのある思想、表現、成果というのは
偏りの極みにある。

主義やイデオロギーはそう呼ばれること自体
ある部分への過度なフォーカス、偏重であることを示している。
デカルトだってピカソだってアインシュタインだってスティーブ・ジョブスだって
ひとつの偏りの極みからインパクトを届けた。

一方、真ん中のことは、だいたい2000~3000年前に解き明かされ
すでに当然のこととして共有されている。

「インパクト」を重視するなら、あえて偏るという戦略も必要なんだろう。

ーー追記ーー

しかし、いくつかの偏りをもって
そのふれ幅の中で全体像が描けるようになればバランスは保たれる。
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by kuniakimat | 2008-05-02 15:25 | ★★★ | Comments(2)

引用メモ 私の複層性

ヴォイスを割る  内田樹さん


”私”にあるいくつかのレイヤーを自覚することの大切さは同感。
そしてレイヤーの違いを表現し分けていくのも面白い。

ーーー
ーー

参考メモ
・コンサルティングにおいては、客観事実と、洞察と、相手へのメッセージ、を分けて書く規律が求められる (空、雨、傘、など)
・僕のブログでは、ここでやったように ーー の数の変化で
 その内容のレイヤーを変える実験をしている
・語り手を変えたりする小説の手法や、人称の扱い方にも通ずる話

ーー
ーーー

しかし、僕が本当に答えたいのは
どのようなときに、どのレイヤーの“自分”でいたら良いか、という実践的な問い。 

また、各レイヤーを行き来する”私”とは誰なのか、という問い。

ーー追記ーー

平面内で統合性が失われる場合の多重人格症というのと同様に
レイヤー間での接続が損なわれるタイプの分裂症もあるんだろうな。
(客観的な事実としての自分を、主観が認めることができない、というような)
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by kuniakimat | 2008-04-21 15:37 | ★★★ | Comments(0)

メモ 勘違いを解く

がんばってるのにうまくいかない。

そういう人・組織にブレークスルーをもたらせたら
とても嬉しいことだ。

本気でがんばってるのにうまくいかないときは
根本的なモデルに欠陥がある。

勘違いや思い込みで、成立し得ない仕組みを回そうとしていたり、
環境変化で従来モデルが通用しなくなったことに気づいていないということ。
 

そういったモデルの機能不全を明快に示すことができればいいなと思う。
それから新しいモデルの提案ができたらと思う。

「そのやり方は、XXな場合は成立するんだけど
 今の状況は△△だから、こういうやり方にすればいいんですよ」

っていう示し方がいいな。

 (こういうのって、”提案”として成立する基本モデルの一つだと思う。)

ーーー
ーー

翻って、自分(達)がうまくいっていないとき、
そのやり方を見直してみることは有用だろう。

多くの”勘違い”は以前いた環境でのみ成立するモデルを
新しい場に、無意識に適用してしまっていることにある。

 大企業のやり方は、中小企業では通用しない。
 発注者の口のきき方は、サービス提供者としては通用しない。
 リーダーのやり方は、チャレンジャーになったときには通用しない。
 スタッフのやり方は、管理職としては通用しない。
 官僚組織のやり方は、プロフェッショナルファームでは通用しない。
 ゲームでの勝ち方は、人間関係では通用しない。
 テストの点の取り方は、仕事の成果につながらない。
 成長経済での戦い方は、成熟経済では通用しない。
 独り身の過ごし方は、結婚生活では通用しない etc

場と、そこにおける成立モデルを理解していることは
本当に重要だ。

ーーー
ーーーー

たとえば、ベンチャー企業においては
営業力がどんなに強くても事業は立ち上がらないだろう。
他にないテクノロジーがなければ勝算は限りなく小さい。
ユニークな強みが不可欠だ。

大企業と違うことは勿論、
零細企業とベンチャーもそもそものモデルが全然違う。
ベンチャーは分野を絞って研究開発しなければ勝てない。
(当然必ず勝つわけではない。”ベンチャー”なんだから)


そこまで考えてみて、そもそも自分たちは”ベンチャー”なのか
と問うことにもまた意味があると思う。

ーーー
ーーーー

社会という場もまた変化している。
新しい場で成立するモデルを理解していなければいけない。

形成されつつある新しいモデル、現在の時代精神といえるものに
関わっていたいと思う。
明らかに綻びている従来モデルに代わる新しい視点。

ーーー
ーー

それは何の周辺にあるだろうか、、、

 IT,生命科学、サステイナビリティ、アート、デザイン、心、、、


ーーー
ーー



話は広がったが、言いたかったのは

「勘違いを解く」ことの重要性。

困っている人の力になるためにも、自分が一回り成長するためにも
勘違いに向き合い、解いていきたい。

(その方法、能力について、高めていきたいと思う)
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by kuniakimat | 2008-04-17 22:50 | ★★★ | Comments(0)

メモ 書いて眺めてみたら?

同じことばかり繰り返し話す人がいる。
他者、環境への問題提起にしろ、自分のことにしろ。

同じこと言ってたってしょうがない。
聞いてるほうがつまらないし、本人の思考も進んじゃいない。
(言っても効果がないということなんだから、言い方なり変えなきゃいけないのに)

ーーー

それはきっと自己正当化の現れであって、
そういうふうに過去の自分を正当化していては
殻をやぶってあらたに成長できるはずもない。

ーーー

自分の内に抱えているものを、批判し、時には否定し、去る
というのは難しいものだ。

だから、お勧めしたいのは、それを外に形にして出してみること。
エッセイでも論文でもプレゼンでもブログでもいい。
一度だしてみるといい。

そうして外のものとして眺めたら
問題点や偏りに意外と素直に気づいて認めることができるかもしれない。
良いと思えた場合でも、それを土台にして次を考えられるかもしれない。

出さないから、「けり」がつかないんだろう。
中途半端なまま抱えているのがよくない。

ーーー
ーー



僕は、これとほぼ同じことを以前にも書いていた。
そのことを自覚する。

ああ、僕だって進んでいないじゃないか、と思う。

そして、この段階(浅さ)の思考はもう卒業して
次の深みで考えよう、と思う。


ーー


ほら、こんなふうに「けり」をつけられるから
やっぱり外に出すことは大事なんだと思う。
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by kuniakimat | 2008-04-17 22:28 | ★★★ | Comments(0)