カテゴリ:思索放浪・凹み( 31 )

700 思考停止について 停止しながら考えるメモ

ーーー再追記ーーー

答えを示しているわけではないのだけれど、
考える方法についての深い洞察だなあと思う。

たぶん、こんなに”深く”考えることはそうそうない。
ひとつの底(最深地点)だったのだなと思う。

その深さは浮上したときなってよくわかる。

ーーー追記ーーー

これ、考えるために書いたので、
無駄な混ざりもので冗長になっているけど、
けっこう根本に近いことも言ってる気がする。

2割ぐらいに圧縮したらちょといいこと書けるかもしれない。
でも書かない。

ーーー再追記ーーー

自分でもとても読みにくいけども、
読み返してみたら、言わんとしてることは、あたらずとも遠からず、な気がした。

ーーー本文ーーー


思考活動というものについての一つの仮説


動き、というものは相対的にしか認められない。
つまり基準点がなければ、動きを観測することは不可能、という性質がある。
なので、思考が活動であるためには、不動の基準点を前提とする必要がある。

(基準点を持たない動き、というものは、構成する部分の動きとしては成立する。
 互いの位置関係が変化するというもので、これは振動であり温度というものだと思う。
 ぐるぐる回る思い悩みや、感情の起伏なんていうのは振動なのだと思う。
 たとえると、家のない旅なんてものはなくって、そんなのは無秩序な漂流なのだ)

さて、活動は、動きを肯定するものであるにも関わらず、
そこに不動の点を設定せざるを得ないというジレンマを抱えているように見える。
活動している人は実は止まっている、というこのジレンマから逃れるために、
多くの人は、無意識的に、不動の点を無意識化して忘却してしまう。

人間における不動の点とは、自分という主体であり、すなわち世界観のことなんだろうと思っている。

 (「我思う故に・・」というのに近いのかな。ただ、その思う主体というのは、世界観なのではないか、と。
 「我」とは「絶対的な自我」みたいなのが存在するというより、世界観が主体なのかもしれないという感覚。
  その意味においてバラモン教の梵我一如とちょっと見かけが似てる気もしたけれど、
  それは絶対唯一解ではなく、我と同じ数だけ梵もある、ということ)

つまり世界観を持たずして活動をするのは原理的に不可能だ、と僕は言おうとしている。

そしてそれが不動の視点であるためには、信じられなければいけない。
信じる、ということは、疑ってはいけない、思考してはいけないということである。
要は思考停止しなければ、思考することはできない、のではないかということ。

今僕が書いてみたことの論理性はまだろくに検証していないけれど、
「停止しなければ活動することはできない」というのは
なんとなくの直観的にも経験的にも合っているように思う。(ただ振動はできるけれど)
(「バカになれ」というのはこのことを言っているのかもしれない)

ーーー

さて、もし活動したいと思うのであれば、停止しなければいけない、と。
一方で、浅はかな視点で停止してしまうのも怖いと思う。
どうするかというと、一定まで掘り進んだら一時停止して、その視点で活動してみる。
しばらくしたらまた視点自体を疑ってみる。
多分これを何度か繰り返していくのだろう。

人によってはたとえば少年期からの視点を一度も疑うことなく活動し続けるだろうし、
あるいは、大人になっても一時停止すらできず更新し続けようとする人もいるだろう。

視点自体を疑う活動というのは、甚だ危うい振動である。
固まりかけている構造を崩す行為であるし、
そもそも、その疑う主体は誰であるのか分からない。(主体である視点を見ることは原理的に不可能でないか)
浮遊した主体を次の場所へ落ち着かせるのは誰なのか。
こういう思考を活動ではなく、思索だとか迷走と呼ぶ。

ーーー

永久停止にしろ一時停止にしろ、浮動の視点を固める、
というのは、難しいことだろうか。考えてみる。

それは、ただ、信じるということであり、もう考えない、ということなので、
何か信じるべきものを示され、納得できたなら、もうそれでdone. とても簡単なこと。

けれども、信じるべきものを示されなかったときは多分けっこう難しい。
自分で視点/世界観を構築するのはとてもエネルギーと時間が要る。

でも、それは、「観」である以上、正しさや間違いなんてものは存在しないから
そんなものを気にして自分を疑い続ける必要はない。
ただ、あるとしたら、「自然さ」や「美しさ」なのだと思っていて、それは大切にしたいなと思う。

だから、さんざん迷走した思索の末になんらかの「観」にたどり着いて
それが自然に気持ちよく感じられるのだったら、
もう、思索は停止してしまっていい、ということかもしれない。



ーーー追記(メモ)ーーー

ためしに最近の僕のことについて少し単純化しながら考えてみる。
強い組織にいる間は、その方法を習得することに集中して自分の視点の思索を停止させていた。(または、組織のそれに融合しようとしていた)
その視点や世界観はとてもよく出来ていて魅力的だったけれど、そこで一生停止していいとまでは、まだ思えなかった。
(十分理解する前に辞めてしまったからかもしれない)
だから、その方法の魅力に後ろ髪を引かれながらも、もう一度自分で思索する余白を残しておくことにした、と。

そういうわけで転職し、またモラトリアムの思索にふけった一年だったように思う。
そうこうした結果、幸い、僕が自分自身で、気持ちいいなあ、と思える視点を掴むことができたような気がする。

だから、しばらくは、もうこの視点について疑うことはせず、
これにしたがって生を営んでいけばいいんじゃないかと思っている。

そいうわけで、思索の旅は終わり、ということだろう。


ーーー追記ーーー


不動の視点が、機能しなくなるとき、
あらたな視点を獲得しなければ、迷走、漂流することになる。
そのときに不動の視点が意識化されていれば、まだ対応しやすいのだけれど、
無意識下にあるときには、視点というものの存在を知ることからはじめなければいけない。

多分、僕のとても感覚的な読みだけれど、
日本は、アメリカのとても意識的な視点によって、従来の視点では機能しなくなるような仕組みを埋めこまれてしまった部分がある。
それを許してしまったのは、日本人が無意識的に大切にしていた視点を自覚しなかったことにも一因があるんじゃないかと思う。

方法や仕組み、というのは、道具に過ぎないようでいて、でもその道具が機能するための大きな前提を必要とする。
そしてそれは、思考法であったりマネジメントスタイルといった高度で抽象的なものになるほど、思想を前提としている。
「はじめに言葉ありき」といった宗教を信じている人間のための道具が、誰にでも役に立つわけではないのだ。
それは、突き詰めて使いこなそうとすればするほど、自分の世界観との違和感に向き合わされることになる。

(その違和感を無視していれば、方法によって思想までのっとられてしまうのだ)

ーー

西洋にどこまで学ぶべきか、については、大きな判断だと思う。

個人的には僕は、どうしようもなく日本で育ったのだし、
無意識下で育ててきた世界観はとても日本的なものなんだと最近よく感じるようになった。
(表面的に西洋的な方法で語っているにしても。
 また、アメリカの会社で働いた影響は小さくないけれど)
そして、僕はこの世界観が美しいと思っているし、とても自然だと思えていて、
それは、なかなかに幸せなことなんじゃないかと思っている。

ーー

なんにしても、方法や道具の魅力に振り回されてしまわないことは大事だと思う。
その道具を使って、何を実現しようとしているのか、
その方法の背景にある思想が何であるか、
を理解しておくのはとても大切だなあ、と思うこのごろ。
まずは、自分がどのような世界観を持っているのか、意識化してみるのもいいかもしれない。


ーーー再追記ーーー

あと、不動の視点たる条件、のようなものについてのメモ。
3つくらいあるのかな、と思っていて、まず深いこと。深くなければ、近所の話は分かるのだけれど、異質や異分野への対応ができなくなってしまうから。
2つ目は自然であること。やっぱり美しく自然でない視点には何か不整合というか調和を欠くのだと思うから。
3つ目はユニークであること。これはおまけなんんだけれど、視点がユニークであると人と違うことが言えて、面白がられて存在価値を認められるから。

で、2つ目と3つ目なんだけれど、これを両立するのがなかなかに難しそうに見える。
自然でかつユニーク。これはなかなか魅力的である。
普通の自然や、不自然に奇特(偏り)は、よくいるけれど、自然でユニークというのはかなり希少だから、
それに出会えたりすると人はとても嬉しくなってしまう。
動物に例えるんだったら、キリンとかチーターとか。とてもユニークだけれど、自然。

1つ目の深いこと、はある程度mustな話で、というか浅い杭なんて揺さぶられたら抜けてしまってとても危うい。
(たとえば、お金、とか、合理性、とか、恋とか、情、とかを最上位の「観」にしてしまうとね)
逆に、とても深いところ(抽象度でいうと高いところ)に観(不動視点)をもてたら強い。
強いというか、何に対しても「観る」ことができるようになる。

売れっ子の作家なんかが、広いジャンルに渡った書籍を異常とも思える速度で執筆していて驚かされるけれど、
(最近だと、斎藤孝とか、内田樹とか、あと中谷彰宏とかね)
その広さっていうのは、その視点がとても深いことによって可能になっていて、
 だから実は、メインメッセージは常に同じことを言っていて、ただ手を替え品を替え、でも視点は変えていない。
その速度っていのは、その視点が不動であることから来ているのだと推察する。
 だから実は、たくさん思考しているようでいて、各著作に新たな発見(動)は含まれていない。
その面白さっていうのは、その視点がたまたまユニークだったからなのだろう。
 だから実は、本人は自然にユニークなのであって、奇をてらっているのわけではない。(でないと、長続きはしない。)

僕の読みでは、多作の時期の前には、深い沈黙の時期があるのではないかと思う。(調べれば分かる話だけれど)
多作の前提には、視点の深さとユニークさがあるとした場合、
その独自の不動視点を獲得するのには、長い思索(自らの視点を問い続けること)が必要だと思うから。

先に書いたように、この思索というものをしているときは、活動はできないのだ。
不動の点が定まらないから、振動にしかなり得ないし
視点を問う思考というのは、どうしようもなく抽象的なので、人口に膾炙する具体的な情報には関心が向きにくいのではないかと。

ーーー

 逆に言うと、多作の時期がきたら、もうその人は”あがって”しまっているんじゃないか、ということ。
 あがった人はもうその視点を深めることはないから(少なくともその時期には)、
 その状態の人から学ぶことはあっても、その人と話すことはないのかもしれない、と思う。
 厳しい言い方をすると、有難い存在だけれど、もう魅力的な存在ではないのかもしれない。
 視点が不動になって吸収の姿勢がなく、どう化けるか分からないという不確実性がない、ような人間に面白みを感じられるかどうか。
 
 多分ブログにもそいう部分はあって、いっぱい書いてしまうときは、気持ちよく調子にのりながらも
 ちょとやばいなぁ、という気持ちがある。まだ、視点を固めるには早いでしょう、と。

ーーー蛇足ーーー

ところで、僕が今こんな長い文章で言おうとしていることの一つは
それは僕がなぜこんな長く意味のない文章を書いているのか、なのだろう。

(これは馬鹿げていて面白い。始めから書かなければ解決される問題なんだから。汚れた靴をはいて雑巾がけしているみたいなもんだ)

要は、僕はまだ、思索の振動をしているから、良い書き物はできないのだけれど、
自分の視点を問い深めるプロセスの中で、書くという方法を用いている、ということ。

もうちょっと言うと、書いて考える、の中でも、特に連想という流れを重視した方法で書いているから、
はじめから簡潔にはまとまりえない性質のものではない。という言い訳をしている。
それはそれで、ときどき必要なことだと。

僕は、最近イメージでの考え事を重視している、とよく言っている。
けれど、本当はイメージを含む3元の思考によって本質へ追い込んでいくことを大切にしようと思っている。
3元というのは、イメージ(像)、フレーム(構)、ストーリー(流)であり、悟性、理性、感性に対応する。
本当に本質的なものというのは、このどれで捉えても本質であるはずだ、と考えているのだ。
そいうわけで、最近ちょっとイメージにより過ぎた思考だったので、連想的に書くことで一度流してみた、ということ。

ーーー

いろいろ書いてみて思ったこと。

僕はまだ、振動の思索の中にいるけれど、
どうやら、お気に入りの不動の視点の手ごたえを感じているのだ。

それが、深く、自然で、さらにユニークだったらいいな、という期待をもってうきうきしている、
そういう時期なのだろう。

新しいステージに来たことを確実に実感したくて書いた文章なのかもしれないし、
ただ、たくさん書いてるうちにライターズハイになってるだけかもしれない。

(すぐ悟ったつもりになってしまうことは、大体は躁状態によるものなので、
 まあ一人で楽しむには良いけれど、人に接するときはちょっと注意したほうがいよい)

ーー

 たまには言葉に書いてみるのもいいな、と思った。
 途中から、言葉遊びに的になってる部分があるけれど。
 自分の気持ちというのをこうやって眺めて理解してみること。

ーー
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by kuniakimat | 2005-12-26 15:57 | 思索放浪・凹み | Comments(1)

泡沫 1112

何も否定しない。

偽物の偽物な部分は相手にしない。

大切なことを大切にする。

ーーー

ときどきちょっと嘘をつく。

ときどきちゃんと言い訳をする。

ときどき後ろめたさを自白する。

ーーー

自分の心にうそをついていないなら
後はなんだっていいんじゃないか思う。

ーーー

三つの色の世界

ーーー

想いは心で温めておく。

一番大事なことは語らない。
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by kuniakimat | 2005-11-12 10:19 | 思索放浪・凹み | Comments(0)

222 責任

+++

「きみがバラのために費やした時間の分だけ、
 バラはきみにとって大事なんだ。」
「ぼくがバラのために費やした時間の分だけ、
 バラは…。」と王子さまは忘れないために繰り返した。

「人間たちはこういう真理を忘れてる」とキツネは言った。
「でもきみは忘れちゃいけない。飼い慣らしたものには、
いつだって、きみは責任がある。
きみはきみのバラに責任がある…」
「ぼくは、ぼくのバラに責任がある…」
と王子さまは忘れないように繰り返した。

(「星の王子さま」サンテグジュぺリを引用していた弟のブログから)

+++

無責任に影響力を行使しない。

また、大事になったものから学ぶものは大きい。
大事に想ったことから得たもの。大事に想ったものを失ったこと。

(歳の離れた弟からもいろいろ教えてもらっているこのごろ。
 大事にすることができてきたかとどうかは別として。。感謝。ありがとね。)
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by kuniakimat | 2005-11-11 11:20 | 思索放浪・凹み | Comments(0)

333 脱ぎ去るということ

どうでもよくないこと以外はどうでもいい

どうでもいいことに追われて大事なことが大事にされていない

というのはよくない。

というわけで、どうでもいいことをどんどん捨てているのであります。

自意識も捨てていくのであります。

そして、全部脱いだら、実は何にもなかった。

と、そう気付いたなら、そういうことなんだと。

実は全部どうでもよかった、そのことに自分でちゃんと気付けたなら、

ただ、どうでもいいことを思い切り楽しめばいいのだ。

いっぺん脱いで、空洞を知って、表層を楽しむことになるのかもしれない。

それはそれでまあ、いいのかもしれない。
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by kuniakimat | 2005-11-04 00:47 | 思索放浪・凹み | Comments(0)

215 さよならについて

手に負えないものには手を出さない

というのもまた、一つの賢明な在り方なのだろう。
いくら魅力的に見えようとも、
手に負えないものは、結果的に人を手負いにするのだ。

5年前、そのことについて書いた。

さよなら文明


何の意図があったのか分からないが、
そこには日付が打たれている。
200X年9月7日

2005年のその日は、一つの手に負えないものと、さよならした日だった、
と結果的には言えるのかもしれない。
ちょっと予言めいていてぞっとした。

ーーー

手に負えないものに手を出さない

無責任な影響力を行使しない

ーーー追記ーーー

僕はまだこのことについて書いちゃいけないと思う。
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by kuniakimat | 2005-11-02 12:12 | 思索放浪・凹み | Comments(0)

泡沫 1027 トリガー 流れ込む水

そんなのどう見たって時間の問題だよ。

ってときに、
誰がトリガーをひくべきだろうか。

ま、本人だろう、と。

大事なことほど、自分自身で気付いて、
自分自身で決めて、進まなきゃいけない、と。

でも、分かっていて見ぬふりをするのは
相手への裏切りだろうか、
自分への背徳だろうか、
何にしても楽ではないのだけれど。

(で、つい言ってしまうのだけれど
 うまく伝えられず凹むのである)

ただ、自分が分かったつもりになっているだけで、
実はそのままでよかった、ということも少なくないし、
それを確かめる意味でも上手にコミュニケートできるといいな、と思う。

見守るというのは大したもんだ、
と思いつつ
それがベストかどうかはよう分からん。

しかし少なくとも親には感謝。

ーーー
ーーー

高い山を積み上げるより
落とし穴を埋めること

それが僕の性分にあっているし、
○○の課題でもあるのだと思う。

隠された落とし穴が多すぎる。

氷山であるより、
湖に流れ込む水であることを選ぶ。

形を忘れ、力を持たず、
空に浮かび、雨を降らせる

ーーー

何を書くか、どう書くか、の前に
何故書かなければいけないのか、
ちょっと深く考えてみる。

そこで見えてきたもの、
それに対して直接アプローチすることが
必要なのだと思う。

書いたって解決されない。
逃げているだけ。

そう、逃げているだけですよー。

ーーー

天に唾する言葉

ーーー

追果営楽の日々
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by kuniakimat | 2005-10-28 10:47 | 思索放浪・凹み | Comments(0)

312 生きてるだけでまるもうけ

***

まあ、ごちゃごちゃ、しょうもうないことで悩んで気取ってんなよ。
しょうもない。

ごちゃごちゃいわんと、堂々と楽しんでいきたらええのに。

いやね、
ほんま生きてるだけでまるもうけやと思うわけです。
生きてないかもしれんかったわけです。

ほんま、死んでたっておかしくない。
病気もするし、危険な旅に出たり
気が狂いかけたり、電車に轢かれかけたり、
そのくらい普通にある話で、

生きてるなんてものはとてもはかなくてあぶなっかしくて
もういつでも死にかけてる、みたいなもんやで。

そう思うとさー、ほんまねー、楽しまんでどうすんのー。
生きてるっちゅうのはそれだけでたいしたもんで、
その中身が多少なんかざらついてたってさ、そんなときもあるさ、と。
ええやん、いきてんねから、たいしたもんやで。

まあ、だから何や、といわれると結論もなんもないんやけどね。
僕は、生きてる今日を嬉しく思うし、
 君が、ちゃんとそこにいるということをとてもかけがえなく思うよ。
 ちょとくらい険悪な関係であろうと、裏切りにむかついてどうしようもなく思っても、
 人のせいにして、甘え続けてるようなどうしようもない姿勢に吐き気をもよおしつつも、
 そんなんどうだっていいから、元気で生きててくれるってことはそれだけで僕の○○。

いやほんまありがとうね。ほんま。

生きてるだけでまるもうけ。
できれば前向きに、楽しくいきましょう。

***


地元の友人から、不思議な電話があった。
「まつむら、生きてるやんな?」
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by kuniakimat | 2005-10-24 00:51 | 思索放浪・凹み | Comments(0)

泡沫 1020

そうかもしれないし、
そうじゃないかもしれない。

温かく複雑な想いも
わかりやすい言葉も
全部飲みこんでしまいます。

大切なことはいつも後になってから気づくし
澄んだ想いは伝えないほうが伝わる。
どうやらアホらしいが、そうなんだからしょうがない。

正直、よう分からんけども
別に分からんでもええのよ。
言おうとすれば、何時間でも語れるようなこと、
もう語ろうとは思わん。

ただ、心のままにいるのだ

あたたかく、複雑なものを、
そのまま眺めておくことにした

ーーー

Your news,,,
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by kuniakimat | 2005-10-22 09:02 | 思索放浪・凹み | Comments(0)

332 泡沫 1019 責任と甘え

つらいときは甘えてもいい。
甘やかされたり、甘やかしたりは嫌いだけれど、
つらいときは支えてもらえばいい
と思う。

責めず、守らず、信じればいい。
開いた人を傷つけたりする人はいない。

僕はそう思う。

あほやなあ、とはいつも思うけどね。

ーーー

結局、相手のなかに何を残したのか、それ以外に何があるだろう

自分がしたことの結果は
ちゃんと自分で受け止めよう

ーーー

温かい泉の還流
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by kuniakimat | 2005-10-20 12:14 | 思索放浪・凹み | Comments(0)

泡沫 1019 武装解除

「営楽追果」

実りある果てへ
華のさく高みへ
澄み切った深みへ

温かく還流する泉

ーーー

選ぶより、育むことを大切にしていこう

焦らない、焦らない

ひとやすみ、ひとやすみ ぐーぐー

ーーー

武装解除!

ーーー

ぷはぁー、
プリン体は天才に効くらしいぞ
(ほんまかな)

ーーー

放つ言葉は僕へのメッセージ
飲み込んだ言葉はあなたへのメッセージ

ーーー
ーーー

同族嫌悪はなかなかの良薬なのであります。
苦い良薬なのであります。

特に、独りよがりな子供たちは、
別の独りよがりを見つめることで、
そこから抜け出すのではなかろうか。

ーーー

解 散!

ーーー

たまには思いっきり
落ち込んでもいいやん。

いや、でもね、
言葉の鎧を脱いだから
やっとね、

もう、何も言うまい。

ーーー
ーーー

鈍い氷のナイフは
もとより限定的なその役割を果たして溶解した。
一番鋭いナイフは最期まで使わなかった。

ーーー

そして泉の中から。

自立すること、感謝すること

何を感じさせたか、何をもたらしたか

ーーー

見つめ、受容し、従うこと
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by kuniakimat | 2005-10-19 16:00 | 思索放浪・凹み | Comments(0)