カテゴリ:人生観( 24 )

28歳の抱負

先日、28歳になりました。

今年およびこれからの抱負。

・夢を持って旅に出よう。
・意味を束ねる光を持とう。
・本物の真ん中を捉えよう。
・分けず固めず自然でいよう。

抽象的だけど、大事なことだと思っています。
これから、いろいろ具体的に活動していくのだけれど、
ときどきは、ここから照らして束ねていきたいな、というようなもの。
自分の底の形とか、信念といってもいいものかな、と。

(詳細は1月18日に書いてみました。
 底の話を目に見えるようにするっていうのは、やはり不自然だけれど。
 公開したり、しなかったり。)

そんな感じで。28歳もいい年にしようっと。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。


ーーー追記ーーー

でもね、本音を言うと、
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない、と思っている。
それはそれで、面白い。
何かが育つための肥やしかもしれない。

ーーー追記ーーー

親友と話していて気付いたのだけれど、
素直に一言でいってしまってもよかったのかもしれない。

僕は、生が好きで、旅が好き、なのだった。

それから、そういう友達が好き。

以上。
好きなものは好き。そこから始めていいということ。
[PR]
by kuniakimat | 2006-01-20 07:42 | 人生観 | Comments(5)

Ⅰ 夢旅 The story of dreaming journey

**********


「人生は旅みたいなものかもしれない」


c0040873_272241.jpg

  夢を想って旅に出て

  道は出会いが作ってくれる。

  果てには空だけ広がっていて

  愛する家へ実を持ち帰る。







ゴールなんてない。往って、帰るのが旅。
豊かな円弧は、夢がくれる勇気と、行動による出会いで描かれていく。

夢を見て、旅に出よう。 


**********






自分の訪問記録で作ってみる

**********

<人生という旅>

僕らの人生は旅に似ている。
c0040873_17175647.jpg
家で生まれて
旅に出て、
いろんなものに
出会いながら
遠くまでいくけれど、
でも結局は
家に帰ってくる。

往って帰るround tourだ。


 生まれて死なない人生なんてない。
 往ったまま帰らない旅なんてない。

 どこまで往けるか分からないけど
 いつか必ず帰り始める。


果てには広い空しかない。c0040873_18262397.jpg
その先に何もないのが果てというもの。
果ての空を見たら、果実をもって愛する家に帰るだろう。

ーーー

<旅の歩き方>

果てはどこにあるだろうだなんて、
家で考えて分かるもんじゃない。
だから夢の勘で部屋を飛び出して、
手探りの感覚で歩き始める。

次の場所に着いたら、その次の場所が見える。
旅の途中に出会いがあって、次の場所を教えてくれる。
縁に導かれ、少しずつ果ての姿が見えてくる。
どこにたどり着くかは運次第。


 果ての存在を直観したら、
 勘と感で動いて、縁と運で導かれる。

   観⇒勘⇒感⇒縁⇒運 果

 (「ん」で、終わる言葉は、しりとりと同じで「それいっちゃあ、お終い」、
  言い尽くした言葉なのだ)


ーーーー

<豊かな旅>

旅は手段としての移動じゃないから、
最短距離や最速往復を目指しちゃいない。
そもそもゴールなんてなくて、回り道こそ醍醐味なのだ。

自由な夢と不思議な出会いが
旅を膨らませて、豊かなものにしてくれる。
c0040873_11452292.jpg

人生の旅も、手段じゃないから、
そのもの自体が意味なのだ。
意味づける基準を外に求めることはできなくて、
意味は、その内側にある。
旅が描いた円の内側が豊かさなのだと思う。
遠いことや速いことばかりがいいわけじゃない。

ーーー

<旅に出る理由>

それでも旅に出たいと思う。
意味がないときに求めるものは、美しさかもしれない。
何かが自然だと思うとき、僕はそれを美しいと思う。
僕らは旅にでるのが自然だと思う。僕は旅に出る。

 家にいたままでも人生の時間は流れていく。
 けれど僕らは、美しい曲線が描きたくて旅に出る。

家が嫌で逃げるのでもない。
僕の旅はround trip。
帰るべき家があるからこそ、旅に出られる。
果てを夢見て往ったあとには、家を愛しに帰ってくる。

ーーー

 (「成功」脅迫に違和感を感じるのは
  今の家はもうダメだから「変わらなきゃ」
  新しい場所へ移らなきゃ、という
  tripだからなのかもしれない) 

ーーーー

<夢見る旅>

夢は必ず覚めるものだし、醒めるからそれを夢という。
果てで僕らは空以外に何にも無いことを確かめる。

c0040873_22453261.jpg

けれど僕らは夢を見る。
夢に意味がなくたって
旅立つ力は夢がくれるから。

本当は、夢なんて何でもいいんだ。
美しさを求めるのに説明なんて要らない。
とにかく夢を見て、ワクワクしながら旅にでよう。


どこまで行けるか分からないし、
どうやって行くのか分からない。けれど、
家を飛び出せば、出会いが僕らを導いてくれる。

夢を見て、旅に出よう。
[PR]
by kuniakimat | 2006-01-18 00:06 | 人生観 | Comments(0)

Ⅱ 選育 Leveraged work

*********

「結局、何をしようとしているんだろう」

c0040873_17263233.jpg


気になることはたくさんあって やれる限りに拡げていった

いつか束ねる光を定めて 迷わず育むことにした




大きく見渡したあとに定めたコンセプトは
全ての意味を照らす求心力になる。
多様さを包み束ねるレバレッジポイントを作ろう。



*********

<選んで、育む>

やりたいことはたくさんあるし、
やってみないと分からないことばかり。
c0040873_17305338.jpg

けれど、旅はいつでも限りがあるし、
時間はいつでも一方向に進む。

何かを選ばなきゃ、進む方向が分からないし、
選ばなかったものを気にしていたら進んでいけない。

いつだって、やりたいことはたくさんあるし、
やってみないと分からないことばかり。

そうやって、ずっといろいろやっていると
結局何がしたいんだか、何をやってるのかすら
分からなくなったりする。

だから、選ぶときには思い切り選んで、
選んだなら、思い切り育むことが大切なんだ。

ーーー


<拡げて、束ねる>

思い切り選ぶためにまずは思い切り広げて、何でもやってみよう。
それから自分が好きなものは何かを想ってみよう。

たぶん、具体的に好きなことはたくさんあって。
ぐーっと絞って束ねてけば、どんどん抽象的にまとまっていく。
ど真ん中の大事なことはとても重たい抽象になる。

それが、一つにまとまったなら、もう選ぶことはお終いにする。
もう何も批判しなくたっていい。ただ、選んだものを全力で肯定的に育んでいく。
選ばれたコンセプトを具体的なモノへ。
形を想い、力を注ぎ込んでいく。

ーーー

<束ねる意味>

c0040873_17314720.jpg
大きく広げた土台から紡ぎ上げたギュっと詰まったコンセプト。
それが人生の支点になって、いろんな力がそこへ収束していくとき
全ての活動が意味を持ち始める。


多様な人も視点も活動も
同じ意味のために束ねることができる。
すべてを包み込む強さのある拠り所。
収束点が多様さを生かすのであり、
絞るのは拡がりを生かすためなのだ。

定めた点があるという安心の中で、
ひたすら肯定的に育むことができる。
育むことで大きく進むことができるから、
収束点は少し早めに定めておくのがいい。
果ては収束の先にあるだろう。

ーーー

どんな収束点をもってこの人生を生きていこう。


大きく広げた世界を、深い統合で束ねていく。



**************




c0040873_2214588.jpg



意味を照らすレバレッジポイント


ーーー参考ーーー

レバレッジワークの関連記事
[PR]
by kuniakimat | 2006-01-18 00:05 | 人生観 | Comments(1)

Ⅲ 三想 The frame of Thinking Trinity

*********

「本物はどこにあるんだろう」

c0040873_17342219.jpg


  本当に大切なものを
  大切にしようと思ったけれど

  理屈が心をねじふせて、
  情の流れに呑まれていった。

  想いを捨てずがんばってたら、
  小さな答えが真ん中にいた。

  そこから全てが見える気がした。


ーーーー


理性と悟性と感性。どの自分にも嘘をつかない。
大きく、美しく、温かいものを大切に見つめていこう。

c0040873_2251674.jpg



*********


<本物の場所>

収束点たる強さをもった本質には
どうやって迫っていけばいいんだろう。

 大切なことは、真ん中にある。
 究めたところや、境界にあるわけじゃない。
 引っ張り合いの妥協で決まるものでもない。

 多分、まったく新しいことでもないし、
 個人個人で大きく違うようなものでもない。

僕らは新しいことや違いにばかり心を奪われがちだから、
真ん中のことを一度理解して忘れないようにしておきたい。

ーーー

<三元の中心>
c0040873_18224781.jpg

出発点は、自分が、いいなあ、と思えるかどうか、でいいんだと思う。
自分として、主観で、美意識で、いいなと自然に思えること。
それは心に素直になると見えてくるもの。とても個人的なもの。

でも、(当り前のように)僕らは一人で生きてるわけじゃないし、
好きなことだけして生きるわけでもない。
家族、友達がいて、社会や歴史というような大きな流れのなかで生きているし、
現実の厳しさにも向きあえる強さや大きさも必要だ。

本質っていうのは、そういうものの真ん中にあるんだと思う。
自分が見て心地よく、人の流れにそっていて、構えとして安定しているもの。

<三元が想うもの>

それが何なのか、3つの視点をぐるぐる回りながら迫っていく。
その取り組みは、想いによって支えられている。
 自分の視点から、像(イメージ)の美しさを観る、悟性による想像。
 他者との関係性から、流れ(ストーリー)の温かさに触れる、感性による連想。
 世界の仕組みから、構え(フレーム)の大きさを照らす、理性による構想。



c0040873_18242475.jpg



悟性と理性と感性は、緊張関係にはあるけれど、
何が正しいといって戦ったり選んだりするものじゃない。
それぞれが目指すものを大切に忘れずにいたい。


美しく、大きく、温かいもの。












*********





c0040873_1736571.jpg



イメージで捉えてみたり、文脈の中で語ってみたり、論理をたたいてみたり、
三方から包み込む真ん中に本質がある。

伝えるときも同じ。
悟性の信頼、感性の慮り、理論の説得という三方へと展開していける。

三つの性質で世界を想う。




ーーー参考ーーー

空から見た世界
考え方観
[PR]
by kuniakimat | 2006-01-18 00:04 | 人生観 | Comments(0)

Ⅳ 流泉 The image of living water

**********

「自分と他人と世界のことは、自然の姿に学べばいい」

c0040873_1746368.jpg
 遠くを見たくて氷を積んだら
 泉の水が乾いてしまった。
 
 泉の形を隠していたら
 水路が閉じて流れが絶えた。

 深く掘ったら世界に通じた。
 川は流れて氷は溶けた。

 水は交わり熱して浮いた。
 乾いた世界に雨を降らせた。


*********


イメージはたくさんの気づきを全体の調和に溶け込ませている。
心に美しい自然のイメージを抱こう。


c0040873_2234768.jpg


*********

<不確かな命>

真ん中を想うとき、真ん中に迫れば迫るほど、
やっぱり真ん中にある問い。
生きるってどういうことなんだろう。自分って何なのだろう。
c0040873_17493458.jpg
突き詰めると、
 それには答えがないのだと思う。
だけれども、
 それが答えなのだと思う。


生命の本質は、それがよく分からない、というところにある。
今の状態が解き明かされることはないし、ましてや先のことは分からない。
その不確かさこそが、生命の条件ともいえるものであり、
僕らが生命を愛おしく思うのはその不確かさ故なのだと思う。




確定された何か、というものは、
もはや死んでしまっているようなもので、
僕らはもう関心を抱かなくなる。
どうなってしまうのか分からないからこそ、
面白さ、魅力を感じるのだ。
それは例えば、
相手の気持ちが分からないからこそ恋愛に夢中になったり、
将来に幅のある子供だからこそ大きな愛情が注がれることでも分かる話だと思う。

c0040873_1155103.jpg



 (だから何でもかんでも決定を急いだり
  コントロールしようとするのは
  命を削っているようなものかもしれない。
  例えば、確固たる自分らしさや、
  人生のゴールなんて本当に、必要だろうか。
  もし普遍のアイディンティティや揺るがない関係、
  みたいなものがあったとして、
  そんな”モノ”に本当に熱くなれるだろうか。)







ーーー

<水のイメージ>

不確実に流動的であるものとして、
水のイメージで捉えたいと思う。

流れる水に確かな形はないし、その中身は絶えず入れ替わっているけれど、
それは水としてそこに在り、あり続けている。
生命はそういうものだと思う。

ーーー

<つながっている泉>

 生命がそんな水のようなものであるとしたとき、
 自分というのはどんなものなんだろう。
 
 僕という泉は、外周と深さを僕のものとして持っているけれど、
 その中にある水としての生命は常に入れ替わっている。

 もらうこともあるし、渡すこともある。
 混ざり合うのだし、共有しているのだと思う。

 自分も他人も同じものだ。
 大きな風景のなかで泉の水は互いにつながっている。
 生命は共有されている。 


c0040873_11595972.jpg


 時間の流れのなかでみると、
 そもそもは間違いなく親の泉から流れ込んできたものであるし、
 ゆくゆくは自分も子孫へと受け渡していくものだ。

 だから、僕らは命を預かっているだけなのだと思う。
 自分らしさとして僕らが扱える範囲は
 預かった命の水をどんな状態にしておくのか、なのだろう。
 

ーーー


<氷の塔>
c0040873_1221693.jpg

僕の泉は、となりの泉との間に川を作り、
水のやりとりをすることができる。
それは、自然なやりとりであり、温く、気持ちよいことだと思う。

ただ、つながることができるのは川で通じる近くの泉だけになる。
水は遠くを見渡すことができない。

近所を越えてもっと多くの他者との関係を考えるときに
僕らは普遍や不変を求め始める。

角ばった形があれば、構造を組んで積み上げることができる。
水を凍らせて四角い氷を切り出せば、自分を高く積み上げて、
そこから広くを照らすことができるようになる。

 これは多くの仲間に関係するマネジメントや
 遠くの他者への戦略を立てるうえでとても役に立つ。

そういう理由で僕らは普遍的な言葉、というものを作り出し、
数字という形式を用いるようになった。
論理を用いて考える、というのは氷を上手に積み上げることである。

 分別する、切り分けるというのは、氷の世界でしか通用しない。
 不確実で流動的な生きた水の世界では、切り分けることなんてナンセンスなのだから。

不確実性の低減を目的として、論理での普遍化が行われるのだけれど
それは命を減らすような行為かもしれないな、と僕は思う。
氷を作るとき、その分の水が、生きた泉から汲み上げられているものだから。

 想いを言葉にして説明しようとするときに
 何かが損なわれてしまうような感覚は、多分そういうことなんだと思う。

だから、あまり考えすぎるのはよくないよ、と思う。
水がなくなった硬い自分では、他者とのやりとりもできなくなってしまう。

ーーー

<深い水源>
c0040873_11555727.jpg

自分の形を捉えるとき、目に付きやすいのは氷の塔だけれど、
本当の形は水の下のある泉の形なのだと思う。
それは、掘り進めることで変えていくことができる。

泉の底を掘り進んでいくと、
そのぶんだけ泉の容積は大きく豊かになるし、
地底にある水脈に通じることもできる。

 深い地下では、
 周囲の泉と繋がることもできて、
 もっと深くでは、
 民族、人類、動物、と、
 より大きな範囲で
 共有する水脈と
 一つになることができる。

底には光が届かなくて暗いから、心で感じて掘っていく。
言葉や分別を使わずに共通の本質に迫っていく。

ーーー

これは、自分自身の暗黙の前提を掘り下げる、深めていく思索、という行為であり、
前提を仮構して論理を積み上げる、高めていく思考、とは逆の取り組みになる。
だから、思索と思考は同時に行うことが原理的に困難なのだ。
(論理を積み上げる人は、世界を見渡すことはできても、世界とつながることができない。)

ーーー

<空に浮かぶ雲>

(日常的ではないけれど)
水は熱くなって蒸発することもできる。c0040873_1825344.jpg

水蒸気となった命は
自分の形という囚われから解放され
自由に空を飛ぶ。
空は世界そのものを包んで
やさしい雨を降らせることができる。
そういうものをアートと呼ぶのだと思う。
形や力を忘れ、それ自体に意味をもつもの。


 (ビジネスは論理の氷を積み上げて
  高みを目指すけれど、
  自由に空を飛びまわるアートに
  憧れを持つ)



ーーー

<イメージの自然さ>

僕がこのイメージが好きなのは
自然に拠っているだからだと思う。

自分の命である水はいろんなあり方をすることができる。
 高く氷を積みあげるのも楽しいだろうし、
 深く水をたたえるのも安心感があり、
 他の泉に流れ込んだり混ざり合うのも気持ちがよいだろう。
どれもいいと思うし、どれか一つが大切だというわけではない。

ただ、大切なのは、それが自然の一部として調和しているかどうか、なのだと思う。

(それを「美しさ」と定義してもいい)


イメージで想うことが役立つのは、
調和の美しさを観ることができるからだろう。

 深く大きくあること、
 つながった泉の群として水位を共有すること
 気持ちよく湿り、流れあうこと
 浄化作用のある自然を持つこと

自然な水として美しくありたいと思う。



ーーー関連記事ーーー

意味の見出し方について




 (Ⅳの「流泉」は、Ⅲの「三想」と半分くらい同じことを言っている。
 もともとは三想という理性のフレームを、悟性のイメージに翻訳しようとして
 水の自然観にいたったんだと思う)
[PR]
by kuniakimat | 2006-01-18 00:03 | 人生観 | Comments(0)

Ⅴ 生旅 If life is something like a journey, - 28歳のメモ

28歳になった。

夢見る旅の人生を豊かなものにするには、
収束点(レバレッジポイント)となるコンセプトを定めていいころかもしれない。

c0040873_224228.jpg

自分の泉の底を掘る思索もここまでとして、この泉の形をよしとする。
これからは水のやりとりを楽しみながら、高さのある形を育んでいくことにする。

ここでまとめたことは、ど真ん中のことであり、とても抽象的なものになった。
ひとつのレバレッジポイントを通過したんだと思う。
(境界のことでないから、具体的な反応は出てこない)

 新しいフェーズまで来た折に、新しい表現の実験もできてよかったと思う。
 (欲を言えば、レイアウトに凝ったり、音楽も使いたかったのだけれど)
 抽象に徹するという、また一つの極端実験になった。
 (なんだかんだやっぱり極端は実験してみて分かることが多い)

 上手には書けていないけれど、今日のメモとしてはこんなものだろう。
 本当に伝えたいときには、自分自身のありかたで表現していくんだろうし。

ここを基点に、育む段階へと進んでいく。
選ぶための自己批判を離れて、楽しく肯定的に動けばいい。

そもそも、何が正しいかなんて分別に意味はないのだろう。
大切にすべきは、大きさと美しさと温かさなのであって。


ーーー

c0040873_1244024.jpg





今年は、夢を見ながら、行動する一年にしよう。


 大きく構えて中心に重心をもち、
 自然な泉のように温かく流れ、
 夢を想って旅に出る。









   If life is something like a journey, 
             now I dream and go.






*********




c0040873_22561855.jpg





ーーーあとがきーーー


結局のところメッセージというのは、
個別の関係性を築かない限り伝わらないんじゃないだろうか。

メッセージは境界に架けた水路を通じて伝っていくものだから
相手に合わせて必要な水を合流させる、という取り組みが必要なんだと思う。

 真ん中のことは、ただ真ん中のことで。それだけでは何も言っていない。
 例えば、黄色だけの信号というのがあって、
 赤や青というセットや、黄は注意を表す色だ、という文脈がなければ、
 意味をなさないように。

そんなこと始めから分かっていたような気はする。
けれど、そういう極端な実験をやってみることでまた学ぶことがあった気もしている。

ーーー
[PR]
by kuniakimat | 2006-01-18 00:02 | 人生観 | Comments(2)

321 美しさっていうのは

美しさっていうのは

「そういうものなんだ」という世界が
そのままの姿を現しているときに感じるものだから、

それが、苦しみや切なさや醜さや複雑さであったとしても、
弱さや敗北や憎しみや別れであったとしても、
それらを僕らがこの世界の自然な姿だと思っているとき、それは美しいのだ。

この世界は美しい、
そう思っているから、僕らは世界を見つめ、美しいと思う。

僕はいつからか、自然にはかなわないと思うようになったから、
自然なもの、自然な人、自然な行動、自然な感情を、美しいと思う。
本物はいつだって美しいのだと思っている。

その世界観に照らして自然なものを美しいという。


ーーー追記ーーー

だから、もし世界が美しいと思えなくなってるんだとしたら、
無意識に持っていた世界観が損なわれてしまっているのかもしれない。
意識的な再構築か、自然に触れることによる無意識の充電が必要なのかもしれない。
[PR]
by kuniakimat | 2006-01-06 02:01 | 人生観 | Comments(0)

生旅 concept (2006-)

Essence of life
- image of flowing water
- story of dreaming journey
- frame of thinking trinity

ーーー

自分の足元を掘る思索はここで一度、終わりにしよう。
大きくなった泉の底に深く打ち込んだ杭、
ここを起点にして、豊かな水をやりとりしながら、もう一度、強さのある高みへ。

夢を持つこと。
行動すること。

ーーー

c0040873_2292124.jpg



旅のかたち
[PR]
by kuniakimat | 2006-01-01 17:24 | 人生観 | Comments(0)

521 意味の見出し方について ー 生きること

死んじゃあいけない、という。

人生に意味はあるのかって、
頭で考えたって、科学に頼ったって、答えを出すのはなかなか難しい。
客観から価値や意味を汲み取ることはとても難しい。

 「命は大切だ。命を大切に。 そんなこと何千何万回と言われるより 「あなた
 が大切だ」 誰かがそう言ってくれたら それだけで生きていける。」
  (公共広告機構)

地下鉄の駅で、こんなコピーを見かけて、
そうだよな、うまいこというなあと感心していた。

客観の一般論だけで十分意味づけできないから、
他者の主観や感性からの意味づけを、自分の意味に置き換えていく。

ーーー

でも、だからといって、必要とされるから生きる、のかというとそれだけでもない。
むしろ、その意味付けに過剰に期待し依存すると苦しくなる。

(だから、先のコピーの「それだけで生きていける」というのは
 ”コピー”らしい誇張だなあと思う)

他者との関係も楽しみつつ、自分自身で人生に意味を見出すことが大事だと思う。
とても主観的な価値観を持つことをもっと大事にしてもいいと思う。
たとえば「私が好きだと思う、私が美しいと思う、私が最高だと思う、その世界を私が守る」というような。

ーーー

 主観的な価値観が大事、といえば、そうだと思うし、またそれだけでもないと思う。

 本質は、悟性によって、感性によって、理性によって、
 違うアプローチであっても、同じ本質にたどり着くはずなのだと思っている。
 何の証明もないけれど、そういうもんなんだと思っている。

ーーー

だから、さっきは、一般論では意味づけが難しいといったけれど、
客観的にも生きることの意味は理解し得るものだと思う。
一人称、二人称を登場させなくたって感じることができるのだと思う。
 
 在るものは無くならないし、
 無いものから在るものは生まれない。
 命というものが、「在る」ものだとするなら、
 それは無くならないし、生じたりもしない。

僕は、いつも泉の水をイメージするのだけれど、
自分の命の水は、そこに突然あらわれたものではなく、
父の泉と母の泉から流れ込んできたということは間違いない。
それから、時間をかけて、川を通じて仲間とやりとりしたり、先人の雨の恵みをうけたり、
また深く自らの泉を掘り下げることで、民族の、人類の、生物の水脈に通じ、大きな泉の一部となり、
自分の泉に水を蓄えてきたのだと思う。

だから、命の水は自分のものではなくって、ただ預かっているものなのだと思う。
ゆくゆくは配偶者との川の中流に新しい泉を作り、先人から預かった命の水を注ぎこんでいく。
そうやって次の世代へと命の水を受け渡していく。
その過程において、自分の泉から水が湧き、溢れるときには、仲間に注ぎ込めばいいし、
自分が乾いたときには注いでもらえばいい。そうやって水は還流し、混ざり合っていく。
時には熱し蒸発して雲となる。
芸術のように、大地を潤す雨を降らすことができるなら、それもとてもいいと思う。

このイメージは、とても客観的だけれど、命とはどういうものかを感じられる何かを含んでいる。


 人は死ぬ前に、然るべき人に自分の命を注ぎ込んでから、その泉を枯れさせるのだと思う。
 できることなら、水脈や雨を通じて、じっくりと命を受け渡していきたい。

 けれど、命はもろく、儚くて、急に器の決壊という形で、命が流れ出してしまうこともある。
 どうしようもなく悲しいことだ。
 でも、どんな受け渡しかたであろうと、在るものはなくならない。
 その命は誰かが引き受けて生きていく。

 日常のなかでは、染み込むような命の交換を行っていて
 それは目に見えないし、形をもたないことが自然なのだと思う。
 けれど、突然の決壊による命の洪水を然るべき人が受け止めるには、
 形ある水路が必要になるんだろう。
 お葬式に形式がなかったら、命の洪水でみんな決壊してしまうかもしれない。

  また逆の場合で、穴の開いた器や、日照りの火事を目の当たりにして
  まとまった水分を急いで流し込むときにも、形のある水路を作る必要があるのだと思う。
  言葉というものは、そういう緊急時の水路として作られたものなんじゃないかという気がする。

これはもう仮想のイメージでしかないのかもしれないけれど、
僕はそう想っていていいような気がしている。
よいイメージが、よい生き方を作るんだと思う。
僕はこのイメージが好きだし、自然な感じがするから、多分、これでいいんだと思う。

それに、在るものは無くならない、ということは理性的にもいえるはずだし、
なんらかの大事な理を含んだ仮想なのだと感じている。



いろいろ書いてしまったけれど、
つまりは、僕は生きることに意味はあると思っている。
(当たり前すぎるけれど、それを信じるというのは大事なことだ)
 命の水は無くならないから、ちゃんと受け継ぎ、引き渡すのであり、
 その意味は、自分がこうあって欲しい、と主観的に願うのであり、
 また、その泉は仲間とつながって一つの大きな系なのだから、引きちぎってはいけない、
のだと思う。

そう思って生きていこう、と今日は思っていて



ーーー追記ーーー

まあ、とにかく、生きましょう、ということです。
乾いて苦しくなったときだとかは、
気兼ねなく連絡を取り合いましょう。
会話のなかで水のやりとりができると思うから。



ーーー追記ーーー


大事な気付き、というのは、
後になって読み返して「なんて当り前なんだろう」と思えるようなものだと思う。
当り前になっていないのだとしたら、
はじめからどうでもいいことだったのか、まだ自分のものになっていないか、
どちらかなのだろう。

だから、当り前のことこそが、本当に大切なことで、
そいうことが、気負わず自然ににじみ出るようなになれたらとてもいいと思う。

(だから本当は、こういうことは、書かなくていいことなんだろうと思っている。)
[PR]
by kuniakimat | 2005-12-07 13:00 | 人生観 | Comments(0)

101 海底の宝箱のこと


人間の自信や余裕っていうのには
喜びを与えられるものを隠し持っている、ということがとても大切なんだと思う。
たとえば、実は料理がとても上手とか、体には自信がある、というのはとても大きな余裕になる。
そういう余裕は、その根拠を明言しなくても、魅力として伝わるもので。

 豊かな水はまたとても大切なもので、命そのものだと思う。
 喜びを与えられるもの、を持っているときにも
 それが、いっぱいに溜められた水の底にあると、
 より素敵に見えるかもしれない。

 空から見えていないほうが宝物らしい。


喜びを与えられるものを隠し持つ、ということについて
[PR]
by kuniakimat | 2005-12-04 15:12 | 人生観 | Comments(0)