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メモ 思考の踊り場としての単純化



「なにか言ってもダメ、なにも言わないのもダメ」
というのは禅についての誰かの解説で読んだ話だけれど

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言葉、文章にするというのは
それはやはり分節行為であって

明快な切り口であるほど
埋めるべき間が生まれ、
そこをつなぐための思考、コミュニケーションが喚起される。

いい加減でも過度な単純化でも
それだからこそ反応が得られるという点は面白い。

”分かりやすさ”は
本来”一つ”である世界を”分けている”という時点で
宿命的に間違いや違和感を含んでいる。
それと同時に”伝わりやすさ”を手にしてもいる。


ところで僕は課題解決のアプローチとして
多極的な要素の複合的jな要因であったとしても
一度、”本質”的な二項対立に代表させて論じることには有効な作用があると思う。

自分をとりまく世界への違和感をつきつめて考えたときに
思考の踊り場として辿り着く、いくつかの根源的な二項対立がある
・男と女
・粒と波
・性と死
・東洋と西洋 
だとか


東洋と西洋に関していうと、
日本人は東洋思想であるべきだとか
自分は東洋的だというわけではなくて


ただ、僕自身の違和感の分析結果として

表面化、意識化され、影響力を持っている西洋的な価値観と、
その下の無意識に蓄積された東洋的な価値観に
葛藤が起こっているんじゃないかと思っている。

洋の東西の“混在”がどれだけ大きな“課題”を抱えているか、というのは
僕の経験と直観からずっと気になっている。
(具体例やレトリックは思いつきのいい加減なものだけれど)

(”東洋が”さす内容については正直まだちゃんと理解できていない。
 また、そこを真言宗ではとか華厳密教ではとかインド古代哲学では、と
 いう言い方をができたとしても、通じる相手は狭く限定されてしまうし、
 そういうのが混ざり合ったものとしての”東洋”のほうが
 より適切な気もしないでもない。いや、どうかな。)

とにかく、


 その“違い”を提起して放置したいわけはなく
 そこに焦点をあてて、もっと考えてみたい、という出発点なんだけれど
 
 でもほんとはもう東洋に回帰したい、という気持ちがある。
 本能とか自然な欲求のレベルでそう思っている。


そして、こういう話法で書いていることに
自分自身、違和感を強く感じているのは
僕の無意識にある”東洋”的な何かと関係しているような気がする。


「なにか言ってもダメ、なにも言わないのもダメ」


なかなか難しくて面白い

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基本的に、僕は何も分かっていないような気がする。

生煮えの考え事メモ


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「大事なことは、言葉になんてできないんだよ」

以心伝心、不立文字

ーーー追記ーーー

自我と無我の対立ってやっぱり
普遍的な大課題だなあ、と改めて思った。
by kuniakimat | 2007-09-08 15:51
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