人気ブログランキング | 話題のタグを見る

521 意味の見出し方について ー 生きること

死んじゃあいけない、という。

人生に意味はあるのかって、
頭で考えたって、科学に頼ったって、答えを出すのはなかなか難しい。
客観から価値や意味を汲み取ることはとても難しい。

 「命は大切だ。命を大切に。 そんなこと何千何万回と言われるより 「あなた
 が大切だ」 誰かがそう言ってくれたら それだけで生きていける。」
  (公共広告機構)

地下鉄の駅で、こんなコピーを見かけて、
そうだよな、うまいこというなあと感心していた。

客観の一般論だけで十分意味づけできないから、
他者の主観や感性からの意味づけを、自分の意味に置き換えていく。

ーーー

でも、だからといって、必要とされるから生きる、のかというとそれだけでもない。
むしろ、その意味付けに過剰に期待し依存すると苦しくなる。

(だから、先のコピーの「それだけで生きていける」というのは
 ”コピー”らしい誇張だなあと思う)

他者との関係も楽しみつつ、自分自身で人生に意味を見出すことが大事だと思う。
とても主観的な価値観を持つことをもっと大事にしてもいいと思う。
たとえば「私が好きだと思う、私が美しいと思う、私が最高だと思う、その世界を私が守る」というような。

ーーー

 主観的な価値観が大事、といえば、そうだと思うし、またそれだけでもないと思う。

 本質は、悟性によって、感性によって、理性によって、
 違うアプローチであっても、同じ本質にたどり着くはずなのだと思っている。
 何の証明もないけれど、そういうもんなんだと思っている。

ーーー

だから、さっきは、一般論では意味づけが難しいといったけれど、
客観的にも生きることの意味は理解し得るものだと思う。
一人称、二人称を登場させなくたって感じることができるのだと思う。
 
 在るものは無くならないし、
 無いものから在るものは生まれない。
 命というものが、「在る」ものだとするなら、
 それは無くならないし、生じたりもしない。

僕は、いつも泉の水をイメージするのだけれど、
自分の命の水は、そこに突然あらわれたものではなく、
父の泉と母の泉から流れ込んできたということは間違いない。
それから、時間をかけて、川を通じて仲間とやりとりしたり、先人の雨の恵みをうけたり、
また深く自らの泉を掘り下げることで、民族の、人類の、生物の水脈に通じ、大きな泉の一部となり、
自分の泉に水を蓄えてきたのだと思う。

だから、命の水は自分のものではなくって、ただ預かっているものなのだと思う。
ゆくゆくは配偶者との川の中流に新しい泉を作り、先人から預かった命の水を注ぎこんでいく。
そうやって次の世代へと命の水を受け渡していく。
その過程において、自分の泉から水が湧き、溢れるときには、仲間に注ぎ込めばいいし、
自分が乾いたときには注いでもらえばいい。そうやって水は還流し、混ざり合っていく。
時には熱し蒸発して雲となる。
芸術のように、大地を潤す雨を降らすことができるなら、それもとてもいいと思う。

このイメージは、とても客観的だけれど、命とはどういうものかを感じられる何かを含んでいる。


 人は死ぬ前に、然るべき人に自分の命を注ぎ込んでから、その泉を枯れさせるのだと思う。
 できることなら、水脈や雨を通じて、じっくりと命を受け渡していきたい。

 けれど、命はもろく、儚くて、急に器の決壊という形で、命が流れ出してしまうこともある。
 どうしようもなく悲しいことだ。
 でも、どんな受け渡しかたであろうと、在るものはなくならない。
 その命は誰かが引き受けて生きていく。

 日常のなかでは、染み込むような命の交換を行っていて
 それは目に見えないし、形をもたないことが自然なのだと思う。
 けれど、突然の決壊による命の洪水を然るべき人が受け止めるには、
 形ある水路が必要になるんだろう。
 お葬式に形式がなかったら、命の洪水でみんな決壊してしまうかもしれない。

  また逆の場合で、穴の開いた器や、日照りの火事を目の当たりにして
  まとまった水分を急いで流し込むときにも、形のある水路を作る必要があるのだと思う。
  言葉というものは、そういう緊急時の水路として作られたものなんじゃないかという気がする。

これはもう仮想のイメージでしかないのかもしれないけれど、
僕はそう想っていていいような気がしている。
よいイメージが、よい生き方を作るんだと思う。
僕はこのイメージが好きだし、自然な感じがするから、多分、これでいいんだと思う。

それに、在るものは無くならない、ということは理性的にもいえるはずだし、
なんらかの大事な理を含んだ仮想なのだと感じている。



いろいろ書いてしまったけれど、
つまりは、僕は生きることに意味はあると思っている。
(当たり前すぎるけれど、それを信じるというのは大事なことだ)
 命の水は無くならないから、ちゃんと受け継ぎ、引き渡すのであり、
 その意味は、自分がこうあって欲しい、と主観的に願うのであり、
 また、その泉は仲間とつながって一つの大きな系なのだから、引きちぎってはいけない、
のだと思う。

そう思って生きていこう、と今日は思っていて



ーーー追記ーーー

まあ、とにかく、生きましょう、ということです。
乾いて苦しくなったときだとかは、
気兼ねなく連絡を取り合いましょう。
会話のなかで水のやりとりができると思うから。



ーーー追記ーーー


大事な気付き、というのは、
後になって読み返して「なんて当り前なんだろう」と思えるようなものだと思う。
当り前になっていないのだとしたら、
はじめからどうでもいいことだったのか、まだ自分のものになっていないか、
どちらかなのだろう。

だから、当り前のことこそが、本当に大切なことで、
そいうことが、気負わず自然ににじみ出るようなになれたらとてもいいと思う。

(だから本当は、こういうことは、書かなくていいことなんだろうと思っている。)
by kuniakimat | 2005-12-07 13:00 | 人生観
<< ご案内) 最近公開したもののこと 泡沫 追果営楽 >>