なんでそんなことするんだろう。
どんなにやわらかくしたって
形は内と外を作る。
存在の主張はどうしたって排他性を含んでしまう。
簡単に発信できるようになった、というけれど、
発信に足るのは「信」あるものだけだと思う。
自分勝手な”発信”が増えてしまっているから
受け取る方としては、偽物は受信しないようにとか、
情報との接し方には気をつけなきゃいけないな。
形なんかにせず、ありたいようにあればいいのに、と思う。
水のようにただ在って、
乾いたところに注ぎ込んだり
泡沫をただ眺めたり
っていう在りかたじゃだめなのかな。
自分自身が自分を認め信頼していればよくって、
主張する必要なんてないんだと、僕は最近よく思う。
なんでそんな言葉を放つの?
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追果営楽の日々
幸せの生産性について