書きかけの考え書き ― いつ表現するか


表現というものにまたあらためてとりかかってみようかなと思っている。
正確には、表現にはまだほど遠く、その準備としての書きながらの思考整理をしようと。


不確実性と多様性、個別性のなかで日々を生きていて
社会的に人生を営むというのはそういうものだという実感を得て充実している。

ただ、ときどきはその日々から体得した普遍的な学びを整理して
言葉として固めておくことで、次の視点に上がりやすくしたり、次の針路を定めやすくしたりすることは
有用なんだと思っていて、その方法のひとつとして考えながら書くというのはよいワークになる。

そういう、個別具体と普遍抽象との大きな行き来のサイクルとして
ここ数年の個別具体フェーズから少し普遍抽象に振ってみてもいいかもしれない、と思っている。

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もう一つのライフフェーズ論として、
個人的な考察から社会的な影響へ、その焦点の段階的移行としても
表現フェーズを一度踏んでもよいかもしれないとも思っている。

【考察から体現へ】

個人的な考察というのは知的に楽しいものだろう。
ただ、それだけをやっていても現実は変わらないので
現実を生きる生身の人間としては、個人的な考察からつかんだ真理、方法論というものを
日々の生活のなかで実践していくことになる。
そこで、真理適用によって現実が改善される場合もあるだろうし、
まったく通用せずに、自分の”真理”は一面的でしかなかったり、思い込みに過ぎなかったことが判明することも多い。
それで、真理認識にフィードバックがかかって修正され、また現実に適用してみてフィードバックを受け、
そのサイクルを繰り返していくうちに、本物で有用な世界認識が出来上がっていく。
同時によりよい自分というものが具体的な存在として実現されていく。

いや、違うかもしれない。考察より現実の課題が先行するのだ。
よく生きたいと思い活動するが、うまくいかないから、自分の世界観にフィードバックをかけて
成立するアプローチに修正しようとする。
そういう切実な考察のほうが結果的に、早く本質に近づく考察になるのだとも思う。

いずれにしても、この考察↔体現プロセスを経ずに、表現に進むことに僕は心地悪さを感じる。
独自の考察に基づいた表現は面白い情報になるかもしれない。
けれど、そこで語られている内容が現実で成立することは担保されていない。
成立性がわからない内容によって(場合によっては害をなすこともあるような内容によって)
表現を通じた他者影響拡大をすることに無責任さを感じてしまう。

(もっとも、それは表現内容の位置づけの問題であって、
 純粋なエンターテイメント、虚構と理解して発信、受信がなされているなら問題ないのだけれど。
 現実にはエンタメ、ゲームといったものでも人間心理に与える影響は大きいものだと思っている)


【体現から拡張へ】

豊かで成立性のある世界観を体現して生きることは素晴らしく幸福なことだと思う。
でもそこでも留まれないのが社会的動物であり、欲深い人間というものだ。
自分はこの在り方をもっと多くの対象、多くの人に適用して、幸福範囲を拡張したいと思うようになる。
自分に閉じずに他者に向かうというのは、精神成熟の自然な方向でもある。

(書きはじめたら、意外にボリューミーになってしまった。
 シンプルな話のはずなんだけどな。
 途中だけど、ここまででいったん休憩して、仮投稿)

xxxxxx

【拡張から表現へ】

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【表現から複製へ】

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     自分   他者   世界


現実   体現 → 拡張   

      ↑    ↓    複製

情報   洞察 →× 表現  ↗
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by kuniakimat | 2016-03-06 13:14 | Comments(0)
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