よく分からないことメモ ”自分に克つのは誰か”

分かったことは書かなくても分かっているので
分かっていないけど気になることについて分からないまま書いたりする。

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勝負ごとというのはよしあしあるけども、人を活性化する効用はとても大きい。
なかなか有用なエネルギー源になるのでうまく使いこなしたいところ。

戦闘や競争、賭けごとというとそのネガティブな側面が大きいのも確かで
まあいろいろ考えていくと、他者と争ったり比べたりするのでなく
己との勝負、自分に打ち勝つ、克己、というところが一つの純粋な勝負どころなんだろうと、実感としてもそう思う。

ーーー

それで、自分に勝つってどういうことか考えると、しかし自分に勝つ主体も自分な訳だったり、
主体が勝ったなら対象であるほうの自分は負けることになるし、いったいぜんたいどういう構造なのかと。
いや主体は一体誰なんだと。

まあ勝負事というからには、征するものと征されるものがいるわけで
それが両方”自分”だということだとすると、自分というものを分割して、一方が征して、もう一方が征されると、そうなるしかない。(と思われる)

それでは、どう自分を分割して、どちらを贔屓(ひいき)するかということを考える。

思いつくのは

・意志が誘惑に克つ
・大欲が小欲に克つ
・思考が感情に克つ

・未来が現在に克つ
・計画が衝動に克つ

・利他が利己に克つ
・外部目的が内部に克つ
・全体が個に克つ

・挑戦が臆病に克つ
・善意が悪意に克つ

といってもなんか作為的な感じはして、
どちらが正統な己であるのか、はなかなか理解しにくい。


ーーー

もう一度リストを眺めて考えていくと、なんだかんだ


・外部からの規範が、内部的な自己に克つ


ということのような気がしてきて、
そうすると、征する主体のほうは、実は自分ではなくて外部なのかもしれないと思い始める。

それって、自分が外部に順応することだったり、全体による個の圧殺であったり、自我の放棄であったりということなのかね。
たしかに超越的なパフォーマンスをあげる克己的な人の中には、何かの奴隷のように振る舞う人もいる。

もしこういうことだとしたら、
己に克つけれど、己は負けるってことだよな、、

自分を消失させるという意味では
滅私奉公だったり、無私、無我の境地、則天去私といったことに近いんだろうか。
(そういう東洋的なものだとしたら、個を重視する欧米では克己的な概念ってどういう扱いなんだろうか。)



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よく分からない。よく分からないままのメモ。

(たぶん分からないながら書いたので気になってまた考え続けることになって何らかの前進があるはず)

ー追記ー

いやまったく逆の可能性として、
一番内側の己が、外側の表面的な己を征するというのもありえるか。
真の自己が、仮の自己に打ち克つと、それはあるかもしれない。
いや、でも克己ってそういうイメージの言葉じゃないよなと思う。


ーー追記2ーー

辞書によると、意志により感情や欲望を抑えること、とある。
けれど、その意志はどこから来るんだろう。
感情や欲望を思考により練り上げて志や目標に定めたものが意志になると思うんだけれど。
感情や欲望が抑えられたときの”意志”は何によって生まれるんだろうか。

ーー追記3ーー

いや、これは時間軸での問題かもしれない。
意志が感情に克つというとき、意志とは過去に決めたことであり、感情は今のものである。
要は過去が現在に優先するということであり、決めたことは変えない一貫性、頑固さが克己なんだろうか。
それだとしても、過去に決めたことというのは、現在の自分にとって外部的な規範ともとれる。
やはり外部による内部への抑圧のことのような気もする。

ーー追記4ーー

たぶん論理的に突き詰めるなら、私とは何か、という哲学的な解釈を踏まえる必要が出てくるんだろうな。

僕の今のところの仮説であり、実感でもあるところからいうと
「私」というのは、一つの解釈、一つの作為的な分節によって発生するものであり、ある範囲につけた便宜的な名称である。

自他の恣意的な境界によって生じる己という一つのアトムについてさらに操作を加えるのが克己というものなのかもしれない。
その操作というのは、自他境界の引きなおしなのか、中空化なのか、さらなる分節なのか、

まだもうちょっと考えてみよう。


ーー参考ーー

論語に由来があるらしい

『論語』顔淵篇


孔子が「己(の身勝手)に打ち克って礼にかえることが人徳につながる」と論語の中で説いたもの。
 謙虚にして積極的に生きるこの姿勢こそすべての向上の源泉である.。

 あるとき、孔子の弟子である顔淵が、「仁」とはどういうことかと質問した。孔子は「己に克ち礼を復むことを仁というのだ。つまり、克己復礼という意味は、自分の身勝手は行わないようにして、心では自分を引きしめ、外では、人として行わなければならない礼を行っていくというものであるのだよ。 もし、人が一日だけでも、「克己復礼」を実現できたら、それは、広く世の中に影響を与え、天下の人々がみんな人徳をよいものだと考え、仁に心を寄せるようになるだろう。
 身勝手に打ち勝ち礼を実践させることは、結局、自分の力によってできることであって、他人の力を待ってできるものではない。すべては、人にもとからそなわっている心の働きによるもので、仁を欲すれば仁は行えるものなのである。」と答えた。
 顔淵がまた、「これを行うための具体的なことを教えてください」と質問した。対して孔子は、「礼にはずれたことをじっと見ていたり、聴いたり、言ったり、したりしてはいけない。みんなの行動が礼と合致するようにしよう。礼とは、人の世に秩序を与え、社会が平和になる法則であり、礼に従うことが仁の徳につながるのである」と答えた。顔淵は感激して、「回(顔淵)はふつつか者であるけれども、なんとかして、この言葉を一生の仕事にしたいと存じます」と答えた。



外的規範の「礼」と、
自らにもともと備わっている「仁」を善いものとして、
身勝手を敵とする構造
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by kuniakimat | 2010-02-09 00:45 | ★★★ | Comments(0)
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