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考えないことについて考えるメモ

深く考えなくなってずいぶんになる。
考えるより感じるとか、味わうとか、そのときを生きるとか、関係性を楽しむとか、そちらに寄ってきているという変化がある。
それと、頭で考え抜いてエッセンスを整理するということについては、2年前から4年前くらいに行けるところまで行った感がある。だいたいのことは解釈できようになったような感覚、底を打った感もなくはないし、それを超える深さまで潜るために必要な、まとまったエネルギーや時間はなかなかとれないという諦めもある。下手の考えなら休んでいたほうがいい。思考は固定化作用がある。浅いレイヤーで固定化してしまったら、自由な深みのある世界の蓋になってしまってつまらない。
一人旅をしなくなったことも大きい。(2年前にサハラ砂漠へ行ったきりになる。あの旅は楽しかった。なんの制約も関係性も感じずにとても純粋に深く考えられたなあと思う。)

もう少し、考えない、ことについて書く。
考える必要がないということもある。そもそも以前はなぜ考え、書こうとしていたか、今となって気づくのは自己の存在確認という目的。考えて表現すること以外に自分を確認することができなかったということ。
何よりも考えることこそ自分が自分であることで、それを極限にまで追求しようとしていた。そこで勝負しようとしていたようなところもある。

それから、現実的に生きていくなかでも、何が何だか分からず、不安でしょうがなかった。暗闇のなかで壁を探ろうと必死で考えていた。
”考える必要がない”のは、考えなければ進めない状況に向き合っていないからということもある。
本当に大事な課題というのはそんなに多くはない。節目節目での判断以外ではいちいち深刻に考える必要はない。ただ問題なのは、節目節目というのは向きあわずに先延ばしにすることもできてしまうということ。その漂流のなかでの思考停止(延期)。

また、考えることへの抵抗も感じるようになっている。それによって損なわれるものがある。損なってしまったものや痛みの記憶や後悔もある。副作用を抑えたうまい思考の扱い方の習得が不十分だという自覚がある。
考えることによって生じていた制約は、考えなくなって気づいた広がりのなかで初めて気づくことでもあったりする。(以前は、考えるということは絶対善として、考えすぎのリスクなんて省みなかった)

こういう状態になって、まだ自分自身、これが何なのか整理しきれていないし、そうきれいに整理しようとも思っていない。というのがこの状態なんだから仕方がない。
けれどもやっぱりときどき不安に思うことがある。僕は考えることをやめてしまって何か大事なものを失おうとしていないか?大事なことと向き合うことから逃げていのではないか?長く考えないことで、考える力が消え失せようとしているのではないか?考えればまた考えることの大きな喜びを思い出すのではないか?、、、

そんなこんなで、またちょっと考えてみようかな、と思う。
ときどき立ち止まって考えるのがいい。たぶん、いま、それに適した時期。
by kuniakimat | 2009-07-22 22:00
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