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奈良の実家への帰省はとても楽しく有意義だった。
家族っていいなと、その有難さはいまさら年々分かってくる。感謝。 ーー考えごとメモーー 人間としての営み、関係、楽しみ その上に 思索者(思想家)としての自分 表現者(アーティスト)としての自分 実現者(ビジネスプロ)としての自分 どれも中途半端といえばそうで、それも自覚して ここ2年くらいはビジネスばかりをやっていて それでやっぱり思うのは 僕は三性そろってこそできることをやりたいのだろうし、 3つに配分することで薄まってしまう以上に 相互作用、フィードバックで高め合うシステムこそ作りたいんだなと しばらく休止していた思索だとか表現も再開していこうと思った。 人間としての営み、楽しみ、関わりも大事にしようと思う。 ーーー 休暇は具体性から解き放たれて 抽象的に本質的に考える機会。 大事にしたい自分であれるかどうかは 僕の場合、抽象的なレイヤーでの納得感があるかで分かるんだなと思った。
自然の摂理によって
いずれ然るべきところに収束する 頭の中に健全なエコシステムが育っているか 規範、基準のずれ 過去の否定は力を生むが、可能性の否定は力を奪う 答えの仮説なしに方法について検証するな ショートカットを作る力 響かない個に働きかけ続けることと 広く発信して響く人にだけ届けること direct と inspire の役割 閃きが貢献になる仕事 自分に対して、だから何なんだ?、と問える力 バランスのよい知的活性の状態を 判断力のないところにリソースを与えない 少なくとも商売人には目的意識がある 違う人種だが仲間、という関係 規律ある創造性 全力で空振りした後の姿勢 (取り組み姿勢以上に重要な分かれ目) この人に嫌われても構わない、と思われない存在 言語化、客観化しない判断は私物化 夢に出てきて嬉しい仕事の背負い方 覚醒による回復 分析の節度 意志がなければ結果は生まれない ブレインとパワー 権限を持つとは言い訳できなくなること 回復しながら進む 乱暴な愛情と、丁寧な非情 期待とは与えるもの (するのは疲れる、されると伸びる) 何と戦っているのか 説明でなく判断のための科学を 背負っていない発言は上滑る trust is not base on capabiliry, let alone performance パキパキな生産性には色気がない 余裕でやれるように努力する フリーミアムな仕事 経験とブランドを積むことで安売りの必要がなくなる ずれている案件にはイシューアナリシスを 疲れるのは心を使って仕事をしているから 反省し、学習するが否定はしない規律 逆境のなかで初めて選択を迫られる 思考回路を矯正するコミュニケーションの大変さ 無反省という力 それは力であり、自らを勝利させ、他者を傷つける 成功と迷惑 アファーメーションとハラスメント 迷惑な魅力 必要悪としての強さ 意識的に客観に照らさない領域 好きなストーリーのなかで生きる部分 それぞれの世界があって そこに優劣も関係も実はなくて ただそれぞれが満足したりしている 勘違いでも自信をもってやるのが ひとつの主体性でありリーダーシップ 自らの毒を、毒をもった他者によって切り裂こうとした 力自体に善悪はない。 それを使う心の問題 美意識をもった仕事を 貴賎はないというが悪の幇助は卑しい仕事 手放したら負け 魅力とは欠落 トピックベースの思考は戦略に向かない。 発想は刺激するが判断に向かない 想いから自然にあふれる行動 余裕がないというかっこよさ、かっこわるさ 甘んじずチャレンジしている状態への評価 フィードバックは本気のしるし マクガフィン的なコンサル 大きな旅をする しっかり退屈する 足るを知る、足らずを知る
書かないのは考える暇がなくなったから、
と思っていたふしもあるんだけど、 実際過去に頻繁に書いてた時って 極限まで追い込まれてたときだったりもするんだよな。 書かずにいられない不安定状態だったり、それゆえの覚醒状態だったりして ほんとうに追い込まれるってことから遠ざかっていたし 業務量が増えても本質に迫られてるわけじゃなかったのかなと思う。 ーー追記ーー 追い込まれ方が知的なものからそうでないものに変わったり 深いものから速いものに変わったということもありそうだ
人生が本質的に苦しいものだと知っていたり、人に言えない逆境に呑みこまれているときでさえも、汗だくになって全力で走っていれば束の間の幸福感に包まれることはできる。結局のところ脳内物質が幸福を担うのだとして、疾走は少し健康的な酔生夢死にすぎないのか、喜びは人工的な操作の産物にすぎないのか。ジム通いの日々にそんなことが気になった。きっと疲れているんだろう。経営者だった祖父が仕事が気になって夜眠れなくなるからと毎日ものすごい距離を泳いでから帰宅していたのを思いだした。身体的な疾走にしろ、がむしゃらに仕事に熱中することにしろ、根本的な何かを忘れる逃避が原動力ということは多いものだと思う。自覚しているかは別にして。ただ、結局家に帰ってくるのだとしても、旅に出ることに意味があるのだと信じて、力の限り遠くまで駆けている。旅の高揚に身をまかせている。
ーー追記ーー 大変なときほどよく働くしよく遊ぶ。戦闘モードでテンションが上がっているのかもしれないし、ただ全力の逃避なのかもしれない。たぶん両方なんだけど。
<急用が入ってしまい、下記、日程延期させていただきました>
ご予定頂いていた方、大変申し訳ありません。 追って再設定させていただきます。 ※ちょうど3日の夜に流通一兆円達成があり急きょ会社におりました。 http://sankei.jp.msn.com/economy/news/111204/biz11120400110001-n1.htm ーー 数年ぶりにやろうかな。最小催行人数2名な感じで。 来られそうな方、コメントorメールくださいませ 最近コメントいただいたDさん、Hさん、Sさんなどいかがでしょう? ーー 3日、18時半~拙宅で飲みましょう。 これそうな方ご連絡いただければ 住所お送りします。 (なんどか引っ越しました。 gmail, hi-ho mail, 電話番号は変わらず) 当日ふらりとかでも。
仕事とは別に、自分が好きなこと、純粋なやりかた、知的に楽しいことも、あらためて大事にしていってもいいかもしれない。
自分が面白いと思えるテーマや抽象度での会話だとか。 ーーー 相手に合わせてする会話っていうのがコミュニケーション上、有用なのはたしかだけれど、 そればかりしているなかで、自分が話したい領域(課題、抽象度)かどうかによるマッチングができなくなっていたような ひとりごとのブログってコミュニケーションじゃないようでいて 本音ベースのマッチングができていたりするんだな。 ーーー 正直なところ、実生活や仕事での人間関係は当然ながら 必ずしも話が合うという理由でできた関係ではなくて だからfacebookでは言えないよなと思うことはけっこうあって ーーー ブログではもっと自由にあるがままでいいし そのうえで面白いと思い合える人たちを大切にしていこうと思った。
このブログを通じて知り合って、家飲みなどで語っていた友人と久しぶりに会ったら、とても楽しかった。
数年を経て、フェーズも環境もお互い大きく変わったのにとても似たチャレンジに面していたりもして。 諸事情あって、思うところもあって、閉じていたんだけれど 僕はここで会った人が好きだし、また仲良くしていきたいなと思った。 またたまに書いたり、オフ会もしようかな。
純粋であり不純でもあり
深くあり浅くもあり 賢くあり馬鹿でもあり 明るくあり暗くもあり 優しくあり冷たくもあり 鋭くあり鈍くもあり あるがまま 検閲されない思考の泡末 ーー 勘違いと闘うために考え続けている (問題の原因は結局いつも勘違いなのだ) ーー 外形的、環境的にも苦労している (内面的な問題だけじゃなくて) ―― 中継ぎ投手と、企業の即戦力採用の類似 (横浜スタジアムにて) ―― オリジナリティへのこだわりを捨てるタイミング ―― 影響できなくても応援する姿勢について (その非合理性と価値について) ―― 自分は許されている、と感じられるか ―― 思考を深めるコミュニケーション ―― 会話が楽しめる関係 ―― 会話脳のコンディション調整 ―― 疲れ過ぎないためにレバレッジを活用する ―― ライオンとの関係は自己責任で ―― 欲しいものを欲しがる ―― 各ステークホルダーの視点を知らないと調整もできない ―― 現実的な夢を見る ―― 夢を持つこととわがままであること ―― 自覚なき暴力 ―― そろそろ明るい未来を思ってもよい時期 ―― 見抜く力を価値に変えていく ―― 価値観が違う人の近くに長くいると調子が狂ってくるもの ―― 方法論のオペレーターは効率的な仕事 ―― この世界に自分の役割はあるだろうか ―― いないよりいい、のと、いなきゃならない ―― できないことを正直に伝える ―― おいこまれて機嫌よく ―― 全体観を持ちつつメッセージは小出しに ―― 遊びと余裕と統合と本音 (自然な関係のために) ―― 自分に見えていない構造をまず認識する ―― 結果としてのいい表情 (愛想笑いや作り笑いが本当の気持ちを損なっていく) ―― 苦しまなくていいことで苦しまない ―― マネージするイメージをもってやる ―― メッキがはげたおかげで等身大でいられるようになる ―― やりたいこと探しをあらためて ―― 開き直ったうえでのチャレンジ ―― 軽やかに、誠実に ―― 健康エネルギーの倍増計画 ―― 自己批判力の強さがひとつの安心材料 ―― 説明しても分かってもらえない苦しみについて ―― ジムで心の英気を養う ―― 学ぶことであり、楽しむことであり、鍛えることであり 広がることであり、深めることであり、交わることであり (プライベートの充実について) ―― 組織の泳ぎ方を覚える ―― 戦闘スイッチ ―― はりつめた目 ―― 「利害と感情の構造」 ―― おそれずに謙虚であること ―― 疲弊せずに頑張る ―― 「罪悪感の欠如が邪悪性」 ―― ボトルネックは視点か力か ―― とらわれ、かたより、こだわり、を解くマネジメント ―― それらしい思い込み、が最大の敵 ―― 優しさと愛・絆の違いについて ―― 無理やりと向き合い ―― 理想を語り続けながら現実を変えていく力を ―― 見えないもの、感じられないものを大事にすることの難しさ (指し示すことの価値) ―― 貢献も不足も必ずある ―― そんなにうまくいってるわけじゃないよ ―― 話が合わない原因が、大方針と共通言語の不在であるときどうするか ―― オペレーションに詳しいが本質が見えていない問題への取り組み方 ―― 抽象の世界で生きていく方法について ―― 消極性と抽象性の病 ―― 全体観という成果能力 ―― 百の語りかけと一の叱責 ―― カッコつけてるだけで何もしない人と付き合わない ―― 「自分にやさしくしないとだめですよ」 ―― 逃げずに向き合って活性化する ―― 「人間を疑いすぎないようにね」 私が邪悪と呼んでいる人たちの最も特徴的な行動としてあげられるのが、他人をスケープゴートにする、つまり、他人に罪を転嫁することである。彼らは、完全性という自己像を守るために、他人を犠牲にするのである。 ーー 自己嫌悪の欠如、自分自身に対する不快感の欠如が、私が邪悪と呼んでいるもの、すなわち他人をスケープゴートにする行動の根源にある中核的罪であると考えられる。 ーー 完全性という自己像を守ることに執心する彼らは、道徳的清廉性という外見を維持しようと絶えず努める。 ーー 彼らは、自身の邪悪性を自覚していると同時に、そうした自覚から逃れようと必死の努力をする。精神病質者のように心楽しく道徳意識を欠いているのではなく、彼ら特有の良心の陰にある自身の邪悪性の証拠となるものを消し去ることに絶えず専念しているのである。われわれが邪悪になるのは、自分自身にたいして隠し事をすることによってである。邪悪なひとたちの悪行は直接的に行われるものではなく、この隠し事をする過程の一部として間接的に行われるものである。邪悪性とは良心の罪の意識の欠如から生じるものではなく、罪の意識から逃れようとうする気持ちから生じるものである。 ーー 彼らに耐えることのできない特殊な苦痛はただひとつ、自分自身の良心の苦痛、自分自身の罪の深さや不完全性を認識することの苦痛である。 邪悪な人たちは、光ーー自分の正体を明らかにする善の光、自分自身をさらけ出す精察の光、彼らの欺瞞を見抜く真実の光ーーを嫌うものである。 ーー そのうそは、あからさまなものではない。訴えられて裁判にかけられるような種類のうそではない。しかし、そのうそはいたるところに見られるのである。そもそも彼らが、私に会いに来たことが、一つのうそだったのである。 それが彼らの、うわべをとりつくろうやり方のひとつだったからである。彼らはロージャーを救おうとしているかのように見せかけていた。 邪悪な人間が選ぶ見せかけの態度に最も共通してみられるのが、愛を装うことである。 ーー 自分は心理的に完全な人間の見本だと信じるというのが、邪悪な人間の特性である。 邪悪な人たちが自分に障害のあることを認識できないという事実自体が、彼らの病状の本質的要素となっている。 情動的病の根底にあるのが、通常は、情動的苦痛の回避である。憂鬱、疑い、混乱、失望といったものを完全に経験する人間が、安定、満足、自己充足した人間よりはるかに健全だということもありうる。 ーー 邪悪な人間は、自責の念ーーつまり、自分の罪、不当性、欠陥に対する苦痛を伴った認識ーーに苦しむことを拒否し、投影や罪の転嫁によって自分の苦痛を他人に負わせる。自分自身が苦しむかわりに、他人を苦しめるのである。 ーー 彼女自身にとっては、彼女は「人々の光」であり、彼女の行くところ、いたるところに喜びと幸せを発散させていることになっている。しかし私をはじめ他人が彼女との関係において経験していることは、彼女が行く先々にきまって残していく、いらいらさせられる混乱と困惑だけである。 私はこの難攻不落の無神経な壁に頭を打ちつけることに疲れ果てていた。彼女にとっては、私の感情など存在しないも同然なのである。 ーー 精神病理学的観点からすれば彼女は病気ではあったが、しかし、彼女が「不安定」であったとは言い難い。それどころか、彼女は驚くほど安定していた。 ーー 患者の精神病理が「圧倒的」だという言い方がよくされる。これは、文字通りの意味である。心理療法の親密な関係においてこうした患者に働きかけようとした場合、膨大なうそや、ゆがめられた動機、ねじくれたコミュニケーションの迷路に施療者のほうがひきずりこまれ、文字通り圧倒されてしまうのである。こうした患者を病の泥沼から救い出そうというわれわれの試みが失敗するというだけでなく、われわれ自身がその泥沼にひきずりこまれかねない。 ーーー ーー 他人を判断するときはつねに充分な配慮をもって判断しなければならないし、また、そうした配慮は自己批判から出発するものだ。 われわれが他人を悪と決めつけるときには、われわれ自身が別の悪を犯しているかもしれない、ということを充分意識する必要がある。「裁くなかれ、なんじ裁かれざらんがために」というキリストの言葉は、無神論者や不可知論者ですら知っているものである。 まず、自己浄化が必要であると説いたのである。これが邪悪な人間に欠けているものである。彼らが避けるのは自己批判だからである。 ーー 自己浄化こそ、つねにわれわれの最大の武器になるものである。 ーー 善は生命と生気を促進するものである。 ーー ストレスとは善の試金石ともいうべきものである。真の意味で善良な人とは、ストレス下にあっても自分の高潔さ、成熟性、感受性、思いやりを捨て去ることのない人のことである。高潔さとは状況の悪化に反応して退行することなく、苦痛に直面して感覚を鈍らせることなく、苦痛に耐え、しかもそれによって影響を受けることのない能力である。 人間の偉大さを計る尺度のひとつがーーそしておそらくは最良の尺度と思われるのがーー苦しみに耐える能力である。 ーー 本書は、いつの日かあらゆる子供たちが、悪の性格とその防止のための基本原理を学校で注意深く教えられるようになる、との期待のもとに書かれた本である。
人生は困難なものである。
これは偉大な真実、最も大きい真実の一つである。ひとたびこの真実を悟ればそれを超越できるという意味で、それは偉大な真実なのである。一旦この真実を理解して本当に受け入れるのならば、人生はもはや困難なものではなくなる。 人生は問題の連続である。われわれはそれについて嘆きたいのだろうか。それとも問題を解決したいのだろうか。われわれは子どもたちに、問題解決の方法を教えたいと願わないのだろうか。 問題によってのみ、われわれは心理的精神的に成長する。問題に直面して解決する苦しみによってこそ、われわれは学ぶ。 問題と、そこから来る苦しみを回避する傾向こそ、あらゆる精神疾患の一次的な基盤である。 中には、問題とそれに伴う苦しみを何としても避けて安易な道を見つけようとし、善にしてまっとうな一切のものからますます離れ、入念に幻想の世界を作り上げて、現実を排除してしまう人もいる。 カール・ユングの簡潔で洗練された言葉によれば、「神経症とはつねに、当然引き受けるべき苦しみの代用物なのである」 しかし代用物そのものが、究極的には当然引き受けるべき苦痛よりも苦しいものになる。 幸い、ある人には神経症に立ち向かう勇気があり、当然の苦痛を引き受ける方法を学び始める。 これらの手段、私が訓練と呼ぶ、建設的に苦しみを引き受け経験する手段は、次の4つである。楽しみを後回しにすること、責任を引き受けること、真実に忠実であること、そしてバランスをとること、である。 問題は手段の複雑さでなく、用いる側の意志にかかっている。 ーーー 神経症の人は外界ともめると、自動的に自分が悪いと思う。性格障害の場合は、外界が誤っているとする。 神経症の人は自分を不幸にするが、性格障害の人はすべての他人を不幸にする、と言われている。性格障害の人はとりわけ自分の子どもを不幸にする。 性格障害の人が無能で有害なのは、親としての役割だけではない。同じ性格特性が、彼らの結婚、友人関係、ビジネス関係など、生活のあらゆる領域に及んでいる。彼らはそこで、しかるべき責任を取ろうとしない。 「もしあなたが解決に一役買っていないのなら、あなたは問題の一部である」
いうまでもなく、誇張とは欠落の証明である。
ーーー 親が子供に注ぐ時間とその質は、どれだけ親に大切にされているか、を子供に示す。根本的に愛のない親は、自分の関心のなさを包み隠そうとして、たえず子どもへの愛を公言し、いかにおまえが大切かと繰り返し機械的に子どもに言ってきかせる。しかし質の高い意味のある時間を与えようとはしない。子どもがそのような虚しい言葉に完全にだまされることはない。意識の上では愛されていると信じたいので、親にすがりつくかもしれないが、親の言葉が行動とつり合っていないことを無意識に知っている。 ーーー 無分別に与えて甘やかすには、多くの動機が隠れている。しかしその場合、共通の基本的な特徴が必ずある。「与える側」が愛の名のもとに自らの要求を満たし、受ける側の精神的要求を考えていないことである。 ーーー 子どもをないがしろにしている人に限って、自分をとても愛情深い親と思っている。愛と愛の感情を混同する傾向に、利己的な性質のあるのは明らかである。自分の感情の中に愛の証しを見出すのはたやすい上に快い。行為の中に愛の証しを見出すのは、難しくかつ苦しい。しかし本当の愛は、一時的な愛の感情やカセクシスを超越した意志の行為だから、「愛はその為すところのものである」という言葉が正しいのである。愛と愛でないものは、善悪がそうであるように客観的な現象で、もっぱら主観的な現象ではない。 ーーー 心の健康とは、あらゆる犠牲を払っても現実に忠実であろうとする、生きた過程である。 (M.スコット.ペック)
偽悪と自覚する偽善
ーー 言ってることよりやってることを見よ ーー 関係性の選び方が人間性 ーー 挫折の多さと反省の深さを誇る生き方 ーー 理想主義でなく、抽象的な現実主義 ーー 思考の臨界越え ーー 表現力を思考・感情の制約にしない ーー 完璧が欠落を生む ーー 弱さをふりかざすという暴力 ーー 相対性の呪縛 ーー 合流循環モデル ーー 脆い強さ 弱いゆえに弱さへの回路を閉じて強くなってしまう ーー 責任に目覚めるとき ーー 利己を受け入れる ーー 心のトレーニングについて ーー 何を求めている人間に求められたいか ーー 外に広げりゃ中はスカスカ ーー 魅惑的な不誠実
美しさの相対性 中心を求める心
ーー 外形を任せて内容を楽しむとき ーー 勝ち馬を作って誰かを乗せる ーー コンテクストの中で自己は解体する ーー 自慰という去勢 ーー 全体をやりきったうえで部分を語る (部分のみ知る人間の語ることは正しくも使えない) ーー 赦しと浄化 ーー 裏切りがあり得るからこそ 愛することに意味がある ーー シンプルに言い切ってしまえばそりゃ強くはなる ーー 理論、実践、表現 ステージごとのバランスを ーー 自分は幸せだろうかと考えないほうがいい ーー 「選択肢を残すとは、先手をとられること」 ーー 閃きの快楽 ーー ライオンを愛して指を食いちぎられたとして ーー 悪のメカニズムとモデル化 ーー 望み方の次元で勝負が決まる ーー 目的のバランスと統合 (快、触、戯 育、与、学 足、愛、悟) ーー 欺瞞に流されない自分を ーー 規範なき強欲が欺瞞を生み自らをも喰い殺す (利己性に人間性を喰われた魔物) ーー 運命の解釈には時間がかかるもの ーー 夢見る人間(現実を見ない人間) と過ごす時間は”楽しい” ーー 安易に善悪のレッテルをはらない物語 ーー 戦略性と文学性 ーー 考察の次元 真実性、説明力、独自性、普遍性、、 ーー 本性は困難なときに ーー 強引にでも進めていく力 役割、責任
抽象という無責任
ーー 反応性の対極としての戦略性 ーー 社長の顔色を見ない役割 ーー 理解されにくいタイプ ーー エリートよりは変人 ーー リソースを考慮したスコープ設定 ーー 「誇張は欠乏の証明」 (フロイト) ーー 平凡の自覚が求める特別感 ーー 面白ければ多少しんどくてもいい ーー 何よりも人格を ーー 善に惹かれるのは愛でなく利己 ーー 楽しい企みを ーー 二割ずつ変革する ーー 欺瞞の物語に生きたいのならそうすればいい ーー キラーチャートというもの ーー 経営管理的な雪かきの仕事 ーー 台風より太陽のアプローチ ーー 全体観と解像度 ーー 統計的パターン認識と偏見・差別について (その合理性と残酷さについて) ーー ぶち当たりながら突破していくなかで力が養われる ーー 同じ議論を繰り返していてつまらなくないか? ーー ときどき本音でとことん話す ーー つぎはぎ思考とゼロベース思考 (それぞれの特性) ーー 目的的分析の価値 ーー 分かっていなくても結果を生む役割について ーー 成果を喜びとする働き方 ーー みんなが分からなくてもいい (覚悟として) ーー 誠意あるカスタマーサービス ーー 変革には本気でない人は機能しない ーー 厳しさのあるマネジメント ーー 愛すべきだが適性がない場合 ーー 「上司は思いつきでものを言う」 ーー 価値軸が交わらない人との付き合い方 ーー 華やかさや面白さを求めないでいい ーー 判断の質での勝負 ーー サービスされ上手 ーー 鵜呑み学習と批判学習を組み合わせる ーー ただ、真実に迫りたい欲求
無意識に意図された無自覚性
ーー 自分が擦り減らなくても回る仕組みを ーー エネルギーは内側の奥深くにあるはず ーー 本気で、バランスよく ーー 一緒にやりましょうよ ーー 高い視点でしがらみをといていく ーー 脳のキャパが小さいから 統合したり絵にして残さざるを得ない (短所が長所を生むことについて) ーー 衝動は抑制し、 屈折は解消し、 腐敗は、、、 (罪の原因を見据えた対応について) ーー インテグリティを失うくらいの負荷をかけて 再統合するときにあらたな見晴らしを手にしている ーー 過去を割り切り、未来を育む ーー 物知りに見えるのは 相手が知らないことを伝えようというコミュニケーションの結果であって ーー 葬式でありがとうと言われる生き方を ーー 譲るということで衝突を避け、 向き合ってこなかったのではないか ーー 最期の日だったら、という基準で ーー 書いたものをあとで見返したときはじめて 自分が何を考えていたのかが分かる ーー 人間への期待値調整 ーー 欲しいものを追いかける日々に ーー 検討時間をあらかじめ限るという方法 ーー 欲しがれば得られるという因果律 (メンタルモデルとして保っているか) ーー 欲しいものを毎日見る ーー 本当に好きなものを好きだと示す ーー 自分が一番大切にしているところを大切にしてくれる人といること ーー 不可解な他者の洞察から 見えた特質は翻って自分にも潜む特質であり 実は人間の本質であることを知る ーー 奥底の本性・信頼性と、表面の魅力を切り分けて認識すべき ーー 独自でありながら普遍 ーー 考察の次元 ーー 悪との共存、共生を考える ーー 内的空虚と外への欲望 ーー 力は与えられるものではない、獲得するもの ーー 耐えることで得てきたものと失ってきたもの ーー 自分の世界に閉じていればそりゃ淀みもない ーー 利他にも利己にもふれない真面目さ (不真面目さには運動がある) ーー 鬼が親となるオブリージェ ーー 強いから強いのではなく、 必要であるから弱さへの回路を閉じる (リーダーの役割として) ーー 頭の中を耕しておく ーー コンセプト・ストラクチャーストックを貯めておいて、機をみて物語統合する ーー 大きな自己信頼をもって ーー ずれながら完成度が高いものの扱いずらさ ーー だんだん楽しくなっていくもの ーー 性的成長はどこに達するのか ーー 追い込まれて初めて位相変化する ーー キャパがないが故の抽象能力 ーー 魅力とは奪う力 ーー 否定も肯定もしない ーー どちらでもない現実を知った上での決断力 ーー 「こだわらない、かたよらない、とらわれない」 ーー 「こんなことを人に言うのは初めて」 ーー 深海写真は使わない ーー 耕しと構築の関係について ーー 他者という鏡は影をもよく映す ーー 感情連動なき行動連動という欺瞞に意味があるかどうか 覚醒したときに初めて、眠っていたということに気付く ーー 真実感度と感情感度 ーー 謝罪しない側が不幸になる。 その因果が埋め込まれた世界 ーー 騙す人間がいるのは、信じる人間がいるから ーー 他者が苦難のときに裏切るのがxxな人間 ーー 戦略が本質のごまかしにならぬように ーー 善人は、善人であることに呵責をもつ ーー 異質を敵ではなく、インテグリティ拡張の対象として捉える ーー 仕事しているふり、仕事しているつもり、をなくす働きかけ ーー 緊張感の欠如に由来する、怠惰な不安感 ーー 回復作業と推進作業を絡ませて動かす ーー 余力をもって本気でやる ーー 育成、構築の喜びへ ーー 自己信頼が他者を動かす力にもなる ーー 反省しない弁明を続ける限り 誰からも信用されない ーー 全体観やメカニズムのない一点突破が席巻しやすい風土 ーー
さて、こう書いてきたような怪物の存在とその成り立ちの説明を
怪物自身につきつけたときに、悪の自覚、反省が芽生えるのに役に立つだろうか。 改心を促さないまでも、その暴力の抑止になるだろうか。 残念ながら、否である。 欺瞞の怪物は、自らに反省や批判の目を向けることはけっしてない。 (それをするにはもうバブルが大きくなりすぎている) 怪物に向けられた的確な指摘でさえ怪物を切りつける攻撃にはならない。 怪物は、欺瞞と創作の解釈をもって、自らに向けられた糾弾や告発をも栄養とし、 むしろ批判者を攻撃する武器に造形してしまう。 犠牲者(およびそれを擁護するもの)にとって 怪物について語ることは怪物に武器を与え被害を大きくすることを意味する。 悪を証明する決定的な事実すらも、その事実の認識を気取られることで 曲解創作による逆襲の材料と契機を与えてしまうことになる。 その力によって怪物は犠牲者を沈黙させるのである。 「いくら悪であっても戦ってはいけないもの」、として怪物は存在する。 その毒牙にかかったものから、怪物の存在や手口について声がもれることはない。 底なしの闇を広げたブラックホールのような恐ろしさがそこに”存在”している。 その中心にあるのは完全な空虚という純粋であり それもまた犠牲者を引き寄せる引力になっている。 そして純粋の引力に引き込まれてしまうのは また疑う力のよわい“純粋”な者たち ーー 自己愛と欺瞞の怪物、 その存在に気付いたなら するべきことはひとつ。 一切の関わりを断つこと。 けして関わってはならない。 ーーー ーーーー この理解が勘違いだと気付いたならそれは大きな救いになるだろう。 けれど、幸か不幸か、同じ怪物の被害者/犠牲者たちに多く出会ってしまった。 自分が餌食になるまで恐ろしさへの警告に耳を傾けることができなかったことを悔いる。
この大がかりな仕掛けに気付く人は意外なほどに少ない。
怪物の心象操作の成果であり、人間の善性の敗北でもある。 そして怪物自身が自らがそのような怪物として生きていることに無自覚なのである。 それは気付いていない、のではない。 自身と向き合うことからの逃避、というのが怪物の起源であった。 無意識に意図されてきた無自覚である。 それを自覚することは怪物でなくなるということ、怪物としての死を意味している。 そのことを無意識が知っているが故に、自覚はまた意図的に遠ざけられる。 ーーー 無自覚な怪物について理解を深めた。 怪物と向き合うことによってその成り立ちを理解した。 そうだ、怪物は無自覚なのである。 怪物とは誰のことだっただろう。 ーーー 不可解の他者の洞察から、見えた特質は翻って自分にも潜む特質であり さらに考えてみれば人間の本質であることを知る。 ーーー 人間の中には怪物が潜んでいる。 利己的で欺瞞に満ちた魔物が棲んでいる。 人間には闇がある。 けれど、闇の魔物が人間をのっとってしまうことは少ない。 闇の魔物の表出を抑えているのは、 そこに闇があるという認識である。 人間には闇がある。だからそれを抑える必要がある。 子供には闇がある。だからそれを抑える必要がある。 自分には闇がある。だからそれを抑える必要がある。 社会は人間の悪を知り、規範を作り、それを守らせることで悪を抑えた。 親は子の悪を知り、躾けることでその肥大化を抑えた。 人は自らの悪を知り、自省と自律を覚えた。 この抑制が機能しないのは、悪を認識しないときである。 人類の絶対善を信じ、自然への無限の破壊を止めることがないもの。 子の善性だけを見、人としての道を教えずスポイルする親。 自らの良い部分しか認めず、罪悪感すらもちあわせずに他者を蹂躙するもの。 ーーー 怪物は闇からの逃避が生みだしたもの。 もし自分の闇を自覚していないなら 自分が怪物である可能性は高い。
邪悪な欺瞞が社会の中で強大化し続けることが可能だったのは、
それと正反対の性質の演技が組み込まれているからである。 怪物の成長サイクルの重要要因の一つがその偽弱的演技である。 その強さと邪悪さの本質は、他者を陥れることによって自らが弱き善良性を装うこと、にあるように思う。 怪物が他者を喰い殺し続けて成長するサイクルを理解することが何かの役に立つのではないか。 怪物の成長は、a偽善⇒b利用⇒c搾取⇒d謀殺⇒e偽弱+a偽善⇒b利用⇒・・・ というサイクルを他者およびコミュニティを乗り換えながら回すことで維持されている。 a偽善:現実の自己を省みない自己愛の怪物は、現実を引き受けている人間には到達しえない美しい自己像を構築している。実態は存在しない偽善に違いないが、その創作は高度な自己欺瞞と演技力によって人を魅了、影響するまでの力を持っている。 b利用:内部が空洞である怪物は内発的に価値を生みだすことができない。他者を魅了し、利用することで自らの成果を確保する。それによって成功者を偽装することで魅了する力を高める。欺瞞と利用のコミュニケーションは天才的な水準に高められている。 (利用されていても楽しいかのように感じさせるまでの能力は正しく発揮されれば大きな価値のあるものかもしれない。実際にbのプロセスにとどまっている被利用者は怪物を高く評価していることが少なくない) c搾取:怪物は自己のために他者を犠牲にすることに躊躇がない。長期的な利用対象と見なした他者は、恒常的な搾取の仕組みに取り込まれる。その搾取を隠蔽し、関係を正当化する創作と洗脳に努力が向けられ、欺瞞を強化するための断片的な証拠づくりやアピール、愛情や信頼の演技が続けられる。実際には、怪物の目的は自己愛を満たすことにしかない。その主張に公正、公平や正義、倫理観は介在せず、こじつけと交渉によって搾取の寄生を持続させようとする d謀殺:犠牲者がいずれその不当性、利己性の事実に疑問を呈し始め、怪物にとって持続的な搾取のうまみがなくなったとき、その切り捨ては最も残虐な形で行われる。欺瞞で勝ち得た信頼によってアクセスしうるすべてを泥棒、詐欺師さながらの手口で奪いとり、相手の持つものを容赦なく破壊する。そして何より恐ろしいのは、犠牲者を(架空の罪をねつ造し流布するといった手口で)陥れ社会的に抹殺することである。冤罪によって相手を陥れ、口を封じることで、犠牲者に見抜かれた本性の漏えいを防ぐ。自らの評判が怪物にとって生命線であるため、この謀殺は巧妙な戦略性をもって全力で執行される。その残虐性、利己性、非人間性に犠牲者は度肝を抜かれるのであるが、そのことが広く語られることはない。この見事なまでの冤罪には、語られることの不能化、が組みこまれているのである。 そんなことがあり得るのだろうか、とあなたが思ったなら あなたもこの怪物の完全犯罪の餌食であり協力者になっている可能性に注意してほしい。 この手口は語ることがその性質上困難である。困難であるように設計されている。語ろうとしてその難しさに直面させられる。それでも、その呪縛を是としてじっとしているわけにはいかない。語ろうとする努力のなかで突破口を見つけなければいけない。 他者への冤罪を含むこの卑劣な攻撃は、それと指摘することができない形で巧妙に実行されていく。 それは衝動でなく計画的に行われる。 事実がすべて明らかになれば、客観的正義がどこにあるかも明白である。 しかしそれだけの不正であるにも関わらず、事実に基づく糾弾が、逆に犠牲者の傷を深めるだけの結末に導く欺瞞の能力を怪物が有している。 「いくら悪であっても戦ってはいけないもの」、として怪物は存在する。 e偽弱:謀殺を含む計略によって、怪物はこの時点で”偽犠牲者”としてなりかわっている。自らが喰いものした犠牲者を悪の加害者にしたてあげ、自らを、弱く、傷ついた犠牲者として関係者や新たな他者のなかに位置付けることに成功している。この偽弱性と、aの偽善性による欺瞞によって同情を勝ち取り、また新たな餌食を利用し、搾取し、謀殺していくのである。自分が”被害者”であり”守られるべき”存在であるという虚構を見事に演じてしまう。事実をいとも簡単に踏み越えて立場をすりかえてしまう演技と心象操作の力は驚異的である。 こうして怪物はまた新たな欺瞞のサイクルへ入っていく。 a偽善⇒b利用⇒c搾取⇒d謀殺⇒e偽弱+a偽善⇒b利用⇒・・・ このサイクルは数年という比較的長期のものであり 大都市のなかでコミュニティを乗り換えながら行われている。
そのような怪物が社会に存在し得ていることは俄かに信じがたい事実であるが
そのあまりの非人間性がその欺瞞を通用させる力にもなっていた。 人間は人の善性を信じたい生き物であり、卑劣な邪悪性を持った人間が存在するという解釈を避けようとして事実を見誤る。 怪物はそのことがよく分かっていて見事に欺瞞の影響力に組み込んでいたし、善性を信じる人間こそが怪物に栄養を与え続ける餌食だった。 巨大な仕掛けはその巨大さゆえに本質を見抜かれるのが遅れてしまう。 人間は巨大なものに憧れと畏怖の念を持つし、巨大なものが善であると信じたい欲求を持つ。
”それ”は、自己愛と欺瞞の怪物だった。
怪物は自らの欲望を満たすために他者を犠牲にすることを常とするようになった。 そして強すぎる自己愛は、自らの悪を認めることができなかった。 自らの行為を省みることを避け、都合のよいお話を作りだすことばかりが上手になっていった。 それは欺瞞であり、愛されるべき自己を守るための虚偽に違いなかった。 お話が上手になるほど怪物の自己愛は強くなり、周囲に信じさせる自己像も美化されていった。 強大な欲望を満たすための行為は卑劣さを増すなかで、実像と自己像の乖離は広がっていった。 乖離の長大さは、事実を見つめ受け容れることを遠ざけ、創作による架橋を強めさせた。 自己愛と欺瞞はこうして歯止めの効かない肥大化を続けた。 その怪物は強大な破壊性を持ち、同時に内部には漆黒の空洞が口をあけていた。 それはまさに、自己愛と欺瞞の怪物だった。 大事に育て上げられ、その結果とりかえしのつかなくなるまでスポイルされた美しい少女の常として、彼女は他人の気持ちを傷つけることが天才的に上手かった。 村上春樹「今は亡き王女のために」
絶対善、絶対悪などというものは存在しない。
まずそのことから理解しなければならない。 善悪は関係の中でしか規定され得ない。 二者間において、片方が奪い傷つけた場合、 その関係において悪かったということはできるかもしれない。 けれどその人物が常に悪であり、悪人だということはできない。 人格は人生を通じた活動の総体でしか評価しえない。 善についても同様である。 一方的に与えることが善だとした場合、 与えている関係だけに目を向ければその人は善に見えるかもしれない。 けれど、その関係の外に、与える以上に奪っている関係性は誰にも必ず存在する。 親に与えられた以上に返すことができた人間はどれだけいるだろうか。 善人の朝ご飯にまぶされた雑魚の命に、その”善人”は何を与えたのか。 熱と光を浴びせてくれる太陽に、その”善人”は何を返したのか。 現実へ誠実に目を向けるならば、すべての存在は善良であると同時に邪悪なのである。 善人を気取る者は、都合のよい関係にしか目を向けていないだけだ。 これが善の欺瞞のひとつめである。 もうひとつ、より厄介なのは、善が相対性でしかないということである。 閉じた系において、一方が善であれば(より多く与えていれば)、 他方は(より多く与えられている)悪ということになってしまう。 ある人が、どちらかといえば善良、というのは、 その母集団がどちらかといえば邪悪といっているのと同義である。 つまり、善を主張することは、他者の悪を糾弾することであり、 善を追求することは、他者を悪に追い詰めることである。 善とは他に悪を押しつけること、と理解した上で、 そんなものを善と呼べるであろうか。 善人というのは不誠実な虚構にすぎない。 ・都合のよい部分から全体敷衍、および ・相対性のなかでの悪の押しつけ、 という2つの方便に支えられた欺瞞である。 ーーー 自らの欲求で利他的な行為をするのは人間生来のすばらしい善性であろう。 けれども、善を目指したり、自認したり、主張すること自体が 他を”悪”に陥れるという、大きな悪を犯していることにも気付かねばならない。 人目への意識や自意識が見えてしまうとき ボランティアや寄付の利己性と偽善に気持ち悪さを覚える また相対性の原理を意図的につかって 他を悪に追い込むことで自らの善を確保しようとする卑しさも存在する。 将来に活かすための原因追求と、 自分が安心するための犯人・スケープゴート探しが混同されてはならない。 災害時のマスコミのなかにこの卑しさを感じざるをえなかった ーーー 善について、その相対性と欺瞞を書いたが あらゆる”ポジティブ”についても同様の構造の上に成り立っている。 たとえば、善良さと並んで人間が追い求めがちな性質である 有能さについて、これは無能さとの相対性のなかでしか成り立たない。 有能であるということは、”無能”な人とのみ比較しているにすぎないし、 有能さをアピールすることは、他者の無能さを告発しているにすぎない。 (いうまでもなく無能な人、というのは存在せず、相対の産物である) ”優秀”な人間にありがちな陥穽である。 完璧主義者は他者を欠陥にすることでその完璧さを強化してしまい 孤独を深めていく。 ーーー ポジティブは欺瞞である。 善良も有能も虚構である。 現実と他者に向き合うことからの逃避によって ポジティブがねつ造され、 そして他者にネガティブを押しつけている。 「これこそが許されざるネガティブじゃないか」 なんていうことによって、自らのポジティブを確保してもいけない。 自らがこのネガティブの当時者であり、 ”ポジティブ”な他者の”犠牲者”だとしても それを糾弾するなら自らもまた”ポジティブ”な加害者である。 人はみな、善良でありながら邪悪であり、 有能でありながら無能である。 それは表裏であり一如である。 人間はけしてきれいなもんじゃない。 純粋さという欺瞞は逃避であり持続性のないバブルにすぎない。 善良や有能を追い求めることが人を不幸にする。 ーーー もちろんすべての人が、このような相対性の呪縛にとらわれているわけではない。 けれど、華やかな世界、憧れの”成功者”には このような相対性の奴隷が少なくない。 ”有能で善良”な人は「相対的に」影響力が大きい。 その発信内容はポジティブでありながら攻撃的で 相対的な価値観がにじみ出いてる。 マスコミやインターネット上でも ”有能”な人たちの相対競争、アピール、罵り合いを目にし、 相対的に“無能”な僕たちはその価値観に知らず知らず染められていく。 ーーー ーー ー 相対性から脱却するための鍵は二つであろう。 「中庸」と「自立」である。 人は皆、善良でありながら、邪悪であり 有能でありながら無能である。 自分もそのような一人の人間にすぎないことを認め、受け容れる。 善や有能を追求せず中庸を心がける。 そして自らに邪悪で無能な側面があろうとも否定しない。 ”善良”で”有能”に見える者にも惑わされない。 それだけの強さを持った、個人として生きる絶対軸を確立することではないだろうか。 ーー追記ーー そしてその絶対軸は、たぶん(僕にとっては) 誠実に生きる、ということなんだろうと思う。 現実に目を開き、自分を偽らず、自分に偽らずに生きる。 (あえて書いてしまうならば 本当の善性が目覚めるのは、そのずっと先だろう) ーー追記ーー 言うまでもなく、 悪行を奨励したり善行を否定する意図はない。 善や有能をアイデンティティとすることの危うさを書きたかった。 現実の自分の指針としては 心が自然と向かう善行には従い、 また認識しうる悪には自制を働かせる。 完全なる善でも完全なる悪でもないが フェアネスを守り抜くことに強い規律を持つ。 僕はフェアネスへの姿勢が 人間の大切な特質だと思っている。 (けれど、善の欺瞞と同じく、 フェアネスは関係の切り取り方の恣意性を拭いえない。 その自覚のもとにあくまで個人的な規律として大切にしたい) 精神的怪物の場合は、目で見て他と比べるものがないだけにわかりにくいが、生まれつき良心を持たない人には、良心の呵責など滑稽の一語だろうし、罪人には、正直がばかばかしく思えるかもしれない。怪物は正常からのずれ。怪物には、われわれの正常こそ怪物的に見えることを忘れてはならない。 スタインベック「エデンの東」
さて、33歳になった。
大きな、大きな1年だ。 考えたことのない大きさに呑みこまれたとき 支えになるのは家族であり友人であり書物であり それでも一番大事なのは自分自身の真実に向き合う心なんだと思う。 使うべきは力でなく心なんだと思う。 その心を支えてくれるのが、また人の心であり、 それでも一番大事なのは真実に向き合う自分の心なんだと思う。 縁。不思議なもので、意図も予期もせぬきっかけから 今の自分にためにあるとしか思えない人や考えに出会う。 (意図したものは逆にうまくいかないことも多い) 年末大掃除をしながらたまたま聴いたお笑いのポッドキャストで紹介されていた小説を読んだ。 人間の真実、自分の人生に向き合って考え、整理していくうえで こんなに有難く感じた本は他にない。 「彼は、真実の中にこそ美がある、と言いました。たとえ、顔をそむけたくなるほど恐ろしい美であっても、と。城門の前で語る講釈師は人の世を薄めて語る。怠け者、愚か者、弱い者の耳にも甘く響くように手加減をする。だが、そんなことをすれば、怠け癖や、愚かさや、弱さを助長するばかりで、何も教えず、何も癒さず、心は天に飛ばない・・・・・・」 「この世のことはすべからく不確実だが、これだけは確実だと思う。人は、表面的には欠点だらけでも、心の内では善良でありたい、愛されたいと願っている。人が犯す悪のほとんどは、愛されようとして近道をとった結果にほかならない。才能や力や天分がどうであれ、もし死ぬときに愛されていないなら、その人にとって、自分の生涯は失敗の生涯であり、死は冷たい恐怖であるに違いない。思いや行動に二通りの道があり、一方の選択を迫られたとき、人はいずれ来る死を思うのがよい。自分の死が世界に喜ばれるのか、悲しまれるのか。前者につながる生き方は避けなければならない。 物語はひとつしかない。すべての小説も詩歌も、人の内部で善と悪が際限のない戦いを繰り広げていることから生まれる。思うに、悪には絶えざる再生産が必要である。だが、善は不滅だ。悪の顔は常に若く、新しい。善は世界の何よりも年を経ている」 よき人生は、よき解釈によって成立するのだと思う。 よき解釈は、俄かに受け容れがたい事実も含め 安易に都合よく解釈したり目をそらしたりせず 苦悩しながら真実に向き合うなかで初めて培われるのだと思う。 不都合な真実も受け容れていかなければいけない。 ときに書物など先人の補助線も借りながら。 そしてそれは人生全体で必ず報われる努力なのだと思う。 絶対的な善も絶対的な悪もない。 自他の人生の豊かさを損なってしまうのはひとえに怠慢であり、 結局人生の価値、人生の意味は、誠実に引き受けた重さによって決まる。 こんな考えでいて、損をすることが多いんだと思う。 それでいいじゃないかと思う。 (あ、、、でもこう書いた自分に 損してるアピールで少しは得しようとする怠慢な心を見た。。 僕はほんとまだまだだ。得をしているほうかもしれない、 ・・・と書いた自分はやはり損してもいいというタイプの、、、) とにかく怠慢が敵なんだと知っておくこと。近道しちゃだめだ。 因果応報。微笑んで死ぬ人生にしたい。 宇宙は/神様は本当のことを知っている。 何より自分が知っている。 自分を騙すのが最大の怠慢であり人生の放棄に他ならない。 そんなことは絶対しちゃいけない。 誠実に、ただただ誠実に。
新年の計をたてながら
ーーー 世界観、価値観、規範、目標を凝結させるときは 慎重でありたい。 枠の固定化は、外部、新しいものへの感受性を阻害するし 成長力や柔軟性、受容性を縮めてしまうことがある。 ーー もちろん確固たる考えを持つことは強さである。 強さとは、弱さへの回路を閉じることである。 自分に対しても、他者に対しても。 弱さから逃げたものは”強い”。 そしてその強さで、弱いものを容赦なく踏みつぶしていく。 自分自身のやわらかい魂さえ踏みつぶしていく。 ーーー この世界を豊かに成長させているのは 弱さであるということを学ばなければならない。 自分を豊かにするのも自分自身の弱さによってである。 弱さを失ってはならない。 ーーー 弱さを引き受けながら、 強者とも共存するだけの たくましさを持たなければいけない。 血肉をえぐられても倒れてはいけない。 それを恐れるあまり殻を閉じてもいけない。 まして自ら牙をむいてはいけない。 バランスを崩さず懐を大きく構える。 固化の弊害を最小限に抑えて軸を定める。 なるべく多くを包み込む大きさを持つ。 開かれた大きな規範を骨格として 自分を保ち、成長させていく。 弱いまま、豊かに大きくなる。 ーーー 激動する環境や邪悪の渦巻く社会で、開かれた弱さを保つ。 (変化も邪悪も弱さの表れなのだから) おそれるべきは、その濁流のなかで 自分がどうありたいか、までが見失われ、損なわれることである。 大きな「規範」が弱い自分を支えてくれる。 いつもこだわる必要はない。他者に期待する必要もない。 仮構でいい。堅牢な一貫性を持つ必要もない。 ただ、自分が逆境や窮地に陥った時に 大事なことを思い出すための役に立つように。 自分の核までが損なわれないように。 ーーー 自分の人生で大切にしたいこと、 価値観を言葉に ![]() 普段は読まなくてもいい。 倒れそうになったときの杖になればいい。 ーーー 大事なことさえ忘れなければ 人生の困難の多くは乗り越えられる。 弱いままでも大きくなれる。 強さに逃げてはいけない。 弱いからこそ大きくなれる。 誠実に、ただただ誠実に
大事な軸は変わらない。
あわただしい変化の中で自分を失わないように。 大切なことを大切に。 ただただ誠実に。 ![]()
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